光の船

BY 穂純透

光の船がやってくる

きらきらと、光の粒を降らせながら

光の船がやってくる

僕らを救いにやってくる


「何をやってるんだ!」
 ガシャンと音を立てて、ビンが割れて破片が飛び散った。
 マツカはそれを呆然と見下ろす。
 すると。
 ふいに現れた拳骨で、マツカは殴り飛ばされた。
「棚が倒れるのを、なぜぼんやり見ていた!?本当におまえは愚図だ」
 いかつい顔をさらにいかつくさせて、上官が怒鳴り散らす。
 けれど、マツカはただうなだれて小さな声でぼそぼそと謝るだけだった。
 やがて、あまりに手ごたえのないマツカに怒ることさえ馬鹿馬鹿しくなったのか、上官は片づけを命じて行ってしまった。
 それを見ていた他の者たちも、ある者は侮蔑を、ある者は同情の視線をちらと投げつつ、去っていく。
 誰もいなくなった倉庫で、マツカはうつろな目を上げた。
 ゆっくりと立ち上がり、ビンの欠片を拾おうと手を伸ばす。
「・・・っ」
 思いの外破片は鋭く、触れた指の先にぷっくりと赤い血がにじんだ。

 ああ。

 やはり、血は赤い。

 自らの指から流れる血を、魅入られたように見詰める。
 ―こんな化物でも。
 やがて、口元に浮かぶ乾いた笑み。
 ―血は、やはり赤い・・・。

 マツカは指を口に含んだ。
 鉄の味。
 
 本当は。
 この棚を倒さずに済んだのだ。
 自らの味を確かめながら、マツカは思う。

 棚が倒れる。
 そう、思ったとたん。
 一瞬。
 アレが、出た。
 ふっと。
 棚が、止まったのだ。
 倒れようとするその途中で。
 自然の法則に反して。
 空中で、静止した。

 それが自分のせいだと自覚した時。
 腰が抜けるような恐怖が身体を突き抜け。
 そして、棚はさきほどの静止が嘘だったように―派手な音を立てて倒れた。

(誰も、気付かなかった)

 指を、口から出す。
 唾液に濡れた指先が、ひんやりと空気に冷やされる。
 ―気付かなかった。
 心の中で、繰り返す。
 やがて。
 ビンの破片を拾うマツカの細い肩が小刻みに震えだす。
 ―気付かなかった。
 だから。



 僕はまだ、生きられる。



 それはまだ、彼がキース・アニアンと出会う前のことだった。

 彼の中にあるのは、怒りだった。
 ただ、ただ、燃えさかる怒りだった。
 だが、彼の業火は機械によって抑えられ、解放することはままならなかった。
 彼はただうずくまったまま。
 いつ果てるともない、地獄を見詰めていた。
 同胞が虫けらのように殺されていく、地獄を。

 彼は、待っていた。

 いつか、解放される日を。

 もう、いつのことだか忘れてしまったが。
 目の見えない優しい少年が、言っていた。
 光の船が来るのだと。
 それは、救いの船。
 どこかの宗教の教義で。
 世界の終りに苦しむ人々を救いに、その船は空の果てからやってくる。
 そして、人々を楽園へと連れて行くのだ。
 罪深き人々を業火の中に突き落として。
 彼には、楽園というものがどういうものかわからなかったが。
 
 扉が開けられる。

 ―206号、こい。

 彼は憎悪に満ちた目を上げる。
 立ち上がりながら、カロンは呟く。


 光の船よ、やってこい。


 どんな場所も、ここに比べれば楽園だろう。


 救いの船よ、やってこい。


 その業火で、こいつらを焼き殺せ。
 人の罪を、燃やし清めよ―。

 彼の名は、カロン。
 ミュウ収容所の怒れる虜囚。

 アルテメシアの上空に、突如としてそれは現れた。
 白い宇宙船。
 中にいる者は、それをシャングリラ―楽園と呼び。
 外にいる者の一部は、それをモビーディックークジラと呼んだ。
 だが、大部分の人々はさほどの関心を払わず、すぐに日常に戻っていった。
 考えるということを機械にゆだねた彼らは、自分の裁量を超えるものを目の前にして、何も感じることが出来なかったのである。

 だが、それは飼いならされた人類の話。
 その姿を目にすることすら出来ないでいる者たちにこそ、その姿は強く焼きついた。
 ―迫害された、ミュウたちである。

 ミュウがやってきた!!
 情報統制されているにも関わらず、それは口から口へミュウたちへ伝わっていく。
 興奮気味の囁き声があちらこちらに満ちる。
 どの顔にも、希望と恐れが浮かんでいる。
 これが、待ち焦がれていた救いなのか。
 だが、素直に喜ぶには彼らは絶望を知りすぎている。

 しかし。
 カロンは違った。
 彼は今にも叫びだしそうだった。
 もし、見張りがいなければ、実際彼は立ち上がり、高らかに叫んだことだろう。
 命の限りに、雄たけびをあげただろう。
 だが、その代わりに彼は恐れと希望に揺れる人々の顔を見詰め、一つの提案をする。
 
 脱走。

 その言葉に、誰もが固唾を呑む。
 だが、今しなければいつするのだ。
 そういうカロンの真剣な声と顔に誰もが心動かし始める。
 ここにこうしていても、惨めに死んでいくだけだ。
 ―ならば。
 あの船が、来ている今ならば。
 ―そうさ。
 カロンはうなずく。

 救いの船がやってきた。

 *

「ソルジャー、また脱走者たちがやってまいりました」
 そう言ったハーレイの顔を、少しだけ振り返ってジョミーは見詰める。
「浮かない顔だな」
 ハーレイは苦笑する。
「同胞たちが解放されることは嬉しいが、受け入れるキャパが圧倒的に足りない。寝る場所、着るもの、そして、食べるもの、だ」
 ジョミーは再び前を向く。
 その瞳は、どこか遠くをさまよう。
 見果てぬ青い星を探すように。
「それでも―受け入れるんだ」
 静かに、ジョミーは口を開く。
「拒否すれば、僕らの存在意義は失われる」
 ハーレイは彼の信じる指導者の背を見詰める。
 幼い少年は、その責務を果たすため、無理やりに成長を果たした。
 その姿に痛々しさを感じながら、その強靭な意志なしには今の自分たちが立っていられないことを、その姿を見るたびに哀しいほどまざまざと感じる。
 ジョミーは淡々と続ける。
「彼らにとって、僕らは初めての救いなんだ。僕らは言わなくてはならない。生きてもいいと。生きる権利があるのだと」
 生きる権利。
 そんな、口にするのもそらぞらしいような言葉が。
 掛け値なしの自分たちの現実なのだ。
 はい、とハーレイは頭を下げ。
 そして、新しい仲間を迎えるために去っていった。

「グランパ」
 ふっと空気の歪みを感じ。
 目を転じた時には、もうそこに今まで存在しなかった人間がいる。
 ジョミーはすでに慣れたその感覚を、もう薄れ掛けた「普通の人間」の感性の上に乗せてみる。
 それは、ざらついた不快感を呼び起こす。
 ルビーのような赤い髪が、ふわりと宙に浮いていた。
「トォニィ」
 ジョミーは、その子供の名を呼んだ。
 ジョミーの期待に応えるために姿だけは大きくなったが、ジョミーの目にはカリナの腕に抱かれていたころと変わらずに見える。
 どうした、と目で聞くと。
 トォニィは不快げにジョミーを見た。
「僕は、あいつら、好きじゃない」
 あいつら、というのが誰かは聞かなくてもわかった。
 脱走者であるミュウたちだ。
「どうしてだ」
 その理由をわかっていながら、ジョミーはあえて聞いた。
 トォニィはすねたような顔で言う。
「なんかさ・・・なんか、やなんだよ。あいつらの思念ってさ・・・なんか、狂信的なんだ。気持ち悪い」
 ジョミーは目を閉じた。
 気持ち悪い、か。
 トォニィ。
 それは。
 君が、幸せに生きてこられた証拠だ。
 トォニィには、迫害された経験はない。
 命の危険に怯えて生きた日々も。
 彼らの必死さを理解することはできない。
 死に物狂いで希望にすがりつく気持ちを、彼は受け入れることができず拒否反応を起こすのだ。
 だが―。
 その彼らの縋る希望の糸は、実はとても細くて脆い。
 やってくるミュウたちのほとんどは、このシャングリラにいるミュウたちと同じく戦闘に耐えない力しか持たない。
 皆、弱い。
 そのことを見せ付けられるたび、ジョミーはトォニィたちの異常さを思う。
 そして―彼らを生み出した己の罪深さを。
 けれど。
 この脆い希望を、自分は守らなくてはならない。
 いつか、青い星にたどり着く日まで。
 だから。
「気持ちが悪くても、彼らは仲間だ。無用ないざこざを起こすなよ、トォニィ」
 な、しないよ、そんなこと!とトォニィが抗議する。
 ジョミーは目を開け、トォニィを見た。
「地球の座標がわかり次第、出発する。そうしたら、また戦闘は避けられないだろう。今のうちに、十分休んでおけよ」
 その言葉に。
 子供の顔が、一瞬にして戦士の顔に変わる。
「わかってるよ。―グランパ」
 そうだ、トォニィ。
 君たちは、闘え。
 その力で、力なきミュウたちの生きる場所を勝ち取るために。

 愛しきナスカの子。
 僕の、子供たち。

 きらきらと。
 白い光が降り注ぐ。
 それは、救いの光。
 救いの船が現れる。
 迷える子らに最後の救いを乗せて。

 白い光の船のぼんやりしたシルエット。
 それに精一杯手を伸ばそうとして―目が覚めた。

 宙に向かって伸ばされた自分の手を見詰め、それからどこかバツの悪い思いで下ろした。
 アルテメシアは陥落した。
 E−1077教育ステーションでその報せを受け、今船は急ぎ帰還の途についている。
 その航海での仮眠。
 その中で。
 マツカは、つかの間の夢を見たのだった。

 マツカは起き上がる。
(救いの船・・・か)
 ずいぶん懐かしい言葉だ。
 昔、まだ仮の両親と共にいた頃。
 何にも怯えずに眠ることが出来ていた頃。
 どこかの教会で聞いたのだ。
 世界の終りに人々を救いに現れる光の船の話。
 現実に現れたそれは―ミュウを乗せていた。
 今はもう、知っている。
 彼らは、マツカと同じものたちなのだ。

「そうだ、おまえと同じ化物だ」

 ふいに、上官の言葉が甦る。
 闇色の瞳に、深い拒絶の膜をはり。
 心無い言葉で、真意を隠す。

 キース・・・。

 マツカは仮眠ベッドから上半身だけを起こした格好で、自分の両手を見る。
 さきほど、夢の中で救いの船に伸ばした手を。
 この手で。
 簡単に彼の息の根を止めることが出来る。
 本気で、そうしようとしたなら。
 訓練を受けていたとしても、彼は普通の人間だ。
 これだけ近くにいれば。
 殺す機会など、いくらでもある。
 だが、マツカには出来なかった。
 それは、彼がマツカに対してあまりに無防備だったからだ。
 殺すつもりなら、殺すがいい。
 マツカに向ける背中は、いつもそう言っていた。
 だからこそ―殺すことが出来なかった。

 解放してくれるものを待っていた。
 何もかもに怯える生活から。
 見えない牢獄から。

 赤い星で感じた、心の中に聞こえる声。
 確かに、僕は知っていた。
 ああいう力を、知っていた。
 彼らは、僕の仲間。
 動物が群れを作って暮らすように。
 人ならざる僕は、同じ群れの中に行くべきではないのか。
 そして、そうするならば。

 ―キース・アニアンは殺すべきだ。
 
 その言葉は、心の中を冷たく転がる。

 殺すべきなんだ。

 ゆるく丸めた両手の指の間に、白い首が浮かぶ。
 指に触れる黒い髪。
 闇色の瞳が、閉じられる。
 静謐に。
 待っていたというように。
 マツカは力を込める。
 力を―。

「・・・っ」

 マツカは急に痙攣を起こしたように毛布の中につっぷした。

 夢を見る。
 夢の中で。
 僕はあなたに手をかける。
 恐ろしいあなた。
 哀しい・・・あなた。




 
 船が呼ぶ。
 救いがほしければ、その男を殺せと。



「マツカか、あいつはほんと、なんでアニアン閣下のお傍にいるんだろうな」
「何も出来ない無能のくせにな。案外、夜の相手でも勤めてるんじゃないか」
「おいおい、口が過ぎるぞ」

 品のよくない笑いと共に、他愛ない陰口が日常に溶けていく。
 それを、マツカはぼんやりと聞いていた。
「よお」
 顔を上げる。
 そこにいたのは、茶色のくせ毛に意志の強そうな快活な笑みが特徴的な青年。
 セルジュだ。
「すまないな、打ち合わせが長引いて。閣下はなんと?」
 マツカは黙って媒体を手渡す。
「特に指令は受けてない。それを渡すように言われただけだよ。すぐに戻る」
 薄い媒体を見詰め、それからセルジュはうなずいた。
 だが、コーヒーメーカーを指差し、一杯飲むくらいの時間はあるだろ、と微笑んだ。
 セルジュの屈託のなさは、マツカの心の氷をいつも少し溶かしてくれる。
 マツカには、馴染みのない感情だった。
 これを、人は友情と呼ぶのかもしれない。
「さっきそこにいたのは、君の部下かい?」
 コーヒーを飲みながら、マツカが尋ねた。
 ああ、とセルジュがうなずく。
「兵士が、多いね」
 たかが辺境の収容所なのに。
「なんだ、マツカ。知らないのか。ミュウ因子を持ったものたちが検査で大量に送られてくる。なんとか各地の収容所に納めていたが、さすがにもう限界でな。新しい大型の収容施設を作ったのさ。そこへ、ここにいる一部のミュウたちを移すんだ。相手が相手だからな。力を封じているとはいえ、これくらいの警備は当然だろう」
 護送。
 それでか。

 セルジュまで狩り出されている理由は。
 マツカは、窓の外の白いドーム状の施設を見る。
 あれがミュウの収容施設だ。
 あの中には、ミュウたちが所狭しと詰め込まれている。
 マツカの心に鈍い痛みが生まれる。
 たまたまだ。
 自分があの中にいないのは、たまたま運がよかったからに過ぎない。
 僕は―ここで、何をやっている。
 彼らの苦しみを、僕は知っているのに。
 暗い顔をしたマツカに、おもむろにセルジュが声をかける。
「さっきの部下の言葉でも気にしているのか」
 え、とふいをつかれて横の成年を見る。
 さっきの。
 ―ああ。
「いや・・・そういうわけじゃないよ」
 正直、言われ慣れている。
 そうか、とセルジュが空になった紙コップをくしゃっと潰した。
「まあ、あれが中傷でなくてもそれはそれでかまわないけどな。まずいコーヒーしか淹れられないおまえが、閣下の近くに置かれている説明がつくなら、そのほうがすっきりしていい」
 その言葉に、マツカは思わず笑う。
「君らしいな」
 にこっとセルジュが笑い返す。
 その笑みを見ながら、自分はまだ笑えるのだ、と不思議な気分になる。
 あの白い檻の中で、今も誰かが死んでいるかもしれないのに。
 明日には、自分があの中に囚われるかもしれないのに。
「さて、と。俺も任務に戻るかな」
「僕も、帰るよ」
「またな。閣下によろしく」
「ええ、また」
 そう言って、マツカはセルジュと別れた。

 *

 カロンは、じっと機会を伺っていた。
 新しい収容所への護送―これ以上の、チャンスはない。
 ここを脱出して、光の船へと走るのだ。
 手の枷は、少しの細工ではずれるようにしてある。
 羊の群れのように管理され、歩かされながら、カロンは胸のうちに宿る炎をうつむいてひた隠す。
 ふと、一人の人間の姿が目に止まる。
 茶色いくせ毛。
 自信に満ちた顔。
 当たり前に光の側を歩いてきた人間の顔だった。
 兵士たちが、彼に向かって敬礼する。
 ―あいつが、トップ・・・。
 
 今だ。

 カロンは、開始の合図を送った。

 マツカは、シャトル発着路に向かって歩いていた。
 ガラスの窓のはまった長い廊下を歩く。
 なにげなく見ていた窓の外。
 セルジュの姿が見えた。
 その横をたくさんの人々が歩いていく。
 ―あれが、ミュウの囚人たち・・・。
 少し距離があったが、彼らの様子はわかった。
 誰もがひどく痩せ、歩みも弱弱しい。
 たまらなくなって、マツカが目をそらそうとした時だった。

 今だ。

(え?)

 マツカは目を見開く。
 今のは、確かに。
 誰かの。
 心の声。

 マツカは窓に駆け寄る。

 そして、見た。
 囚人の一人が―おそらく、声の主が。
 セルジュに向かっていくのを。
 周りの囚人たちも、あらかじめ決められた行動だろう。
 兵士に牙を剥く。
 羊たちの必死の抵抗。

 だが、マツカの意識は哀れな羊の群れには向いていない。
 驚きを浮かべた、一人の人間に向かう。

 セルジュ。

 囚人の手が動く。
 何をするつもりか、マツカには即座にわかった。
 その時。
 一瞬、時が止まった。



 
 ―救いがほしければ。



 誰かの声がする。




 
 ―その男を殺しなさい。




 そして、浮かび上がる。
 一人の男の姿。
 圧倒的な孤独の中に。
 一人、凛と立つ男の後姿―。


 キース。

 キース・アニアン。

 人類の最後の守護者。




(キース、僕は)




 目を見開く。
 光の船の幻影。
 セルジュの笑みが、閃いた。




「僕はーーーーーーー!!!!」




 マツカは、手を振り上げた。

 身体にかかった圧迫で。
 自分の計画が失敗したことを悟った。
 かなしばりのような、この圧力。
 これは、人間の力ではない。
 これは、俺と同じ。
 俺と同じ、ミュウの―・・・。
 囚人仲間ではありえない。
 彼らは、驚いた顔でカロンを見ている。
 そして、目の前の。
 今まさにカロンが血祭りにあげようとした男も。
 驚きに声をなくし、カロンを見ている。

 誰が。

 カロンの意識が、あたりを探る。

 そして。

 目が合った。

 銀色の、瞳。

 ―おまえか。

 お、ま、え、が。

 き、さ、ま。

 叩きつけるような憎悪が、マツカを吹っ飛ばすのと。
 自分を取り戻したセルジュが、銃の引き金を引くのとは。
 ほぼ同時だった。 

 気を失う瞬間。

 光る船の幻影が見えた。

 そこに、行きたかったんだ。

 カロンは、宙に手を伸ばす。

 その先に、現れる白い船の幻影。

 光の船。

 それは、救いの船。

 きらきらと、光の雨を降らせる。

 そこに・・・行きたかったんだ。

 ただ。

 ただ。

 この生をまっとうさせてくれる、その場所へ。

 ただ、それだけが、願いだった。

 もう一度、銃声が響いた。

 カロンの意識が、白い船の幻影と共に、消えた。

「地球の座標はわかった」
 ミュウの長、ソルジャーシンは、まっすぐな目を空へ向けた。
「もう、ここに留まる理由はない」
 さっと手を横に薙ぐ。
 クルーたちは、固唾を呑んでその仕草を見守る。
 唯一つ、彼らを導く指標を。

「行こう、地球へ」

 ジョミーの言葉は、力強くシャングリラにこだました。

 マツカは眼を開き、ゆっくりと目をしばたいた。
 薄暗い中に、天井が見えてくる。
(ここは・・・)
 ぼんやりと記憶を手繰ろうとした時、ふいに声がかけられた。
「目が覚めたか」
 はっとして、声の方に顔を向ける。
 そこには、闇に沈むようにして一人の男が座っていた。
「キース・・・」
 マツカは、彼の名を呼んだ。
 キース・アニアンは立ち上がる。
「力を、使ったな。マツカ」
 息が詰まったように感じて、目を見張る。
 身体がかすかに震えた。
 だが、彼の口調は静かで、咎めるようでもなかった。
「セルジュは・・・」
 喉がひどく渇いていて、それだけしゃべるのにも苦労した。
 無事だ、とキースは短く答えた。
 マツカは、ふいに涙があふれてくるのを感じた。
 いつもと少しだけ様子の違うキースの静謐さ、優しさとも違う沈黙に触れたせいかもしれなかった。
 喉は干からびそうなのに、こんなに身体に水があったのかと思うような涙があとからあとから溢れてくる。
 飲み込みきれない感情が暴走を始め、嗚咽と共にこみ上げる。
「キース、キース・・・」
 囁くように彼の名を呼ぶ。
 マツカを縛る者の名を呼ぶ。
 彼は、答えない。
 ただ、静かにマツカを見詰めるだけだ。
「キース・・・知っていますか。あなたは、知っていますか。光る船の伝説を。この世の終りに、光る白い船が現れるんです。・・・光る船は、苦しむ人々を救いに来るんだ。楽園に、連れて行くために」
 キースは、沈黙を続ける。
 端正な顔は、そうして無表情で息を殺していると、まるでよく出来た蝋人形のように見えた。
 マツカは、熱に浮かされたような気持ちのまま、蝋人形に向かってしゃべり続ける。
「ねえ、キース。僕は、ずっと待っていたんです。救いの船を、ずっと。この力のことがばれれば、殺される。そうやって毎日怯えながら暮らすものの気持ちが、あなたにわかりますか?」
 何気ない言葉を疑い。
 笑顔の裏を伺い。
 目立たぬよう、目に留まらぬよう。
 好意も悪意も一緒くたに拒絶して。
 死んだように生きてきた。
 切望していた。
 そんな日々を断ち切る力を。
 救いの光を。
 連れ去ってくれる船を。

「でも・・・だめですね」

 ほろり、とマツカの歪んだ目から涙が零れ落ちる。

「もう、乗れない。もう、乗ることは出来ない・・・」

 あの囚人の。
 最後の憎悪の瞳。
 同胞だと知っていた。
 マツカは自分と同じ者だとわかっていた。
 ―なぜ、邪魔をする。
 その目は言っていた。
 ―おまえは、俺たちと同じなのに。
 なぜ、と。
 彼の心の絶叫が、身体に焼き付いている。

 ―裏切り者、と。


 刻印のように。

 
 きらきらと白い光を放つ船が。
 マツカを置いて遠ざかる。
 救いの船。
 乗れなかった者と。
 乗る資格を失った者。

「救いの船・・・か」

 ぽつん、と闇に落ちた雫のように。
 それは、キースの声だった。
 マツカは、はっと涙に濡れた顔を上げる。
 蝋人形の顔が、かすかに苦しげに歪んでいた。
 それは、涙でかすんだ目に映った幻かもしれなかったが。

「マツカ、本当の絶望とは、そんな幻影すら許しはしないのだ」

 その言葉に。
 マツカは、はっと気付く。
 目の前のこの男の抱く絶望―その深さ。
 救いを思い描くことすら出来ぬ、圧倒的苦しみ。
 その、真の闇。

「ミュウどもが地球へ向かい、動き始めた。私も向かう―来るか」



 来るか。




 救いの船。
 光を放ち、問いかける。
 乗車券がほしいなら、その男を殺しなさい。
 キースはいつのまにか、マツカに背を向けていた。
 いつも、その背はマツカの凶行を誘うかのように無防備だ。

 マツカは一筋の涙を流し、目を閉じる。
 乗車券に伸ばしかけた手を下ろす。

 さようなら・・・今まで、生ける糧をありがとう。





「行きますよ」







 救いなきこの世界を。
 あなたの背を追いかけて。




 いつか、この身が宇宙の塵となるまで。






 そして、地球へ向かう最後の旅が始まる。

 

「光の船」
END