(遅くなっちゃったな)
 ティノは、書類をファイリングしながら、ちらと壁の時計を見た。
 古い染みがある壁にかけられたそっけない時計の針は、すでに19時を回っている。
(もうすぐ部の予算会議があるから、ちゃんとしとかないとなあ・・・)
 ティノは北欧研究部の会計をしている。部室には、北欧家具やら、カバに似てるけどカバじゃない妖精のマグカップ等が所せましと並んでいた。
 窓の外を見る。
 部内が明るいので、外は闇に沈んでいた。
 向こうに、校舎の明かりが見える。もう、明かりが付いている場所は職員室を含めて数か所だ。
 北欧研究部の部室は校舎と対面にある旧校舎の一室にあった。
 この旧校舎はセカンドインパクトでガタがきていて、いつか取り壊されることは決まっているものの、予算がなかなかつかずに放置されている。
 ただ遊ばせておくのももったいない上に、放置しておくとさらに老朽化が進むことから、多少の補強工事をしたうえで部室として解放しているのだ。
 校舎の右側に続いている体育館には、まだ明かりが付いている。
 しばしその明りを見ていたティノは、やがて、よし、もうひとがんばり、と電卓を叩きだした。
 そして、しばらくして携帯の着信音に顔を上げる。
「あ、スーさん」
 ぴ、と通話を押すと、おう、といつもの低い声が流れてくる。
「部活終わりました?」
 ん、とそっけない答えが返る。別に機嫌が悪いわけでもなんでもない。これが彼の基本スタイルだ。
『おめは?』
 ティノは、目の前の書面を見る。既にほとんど終わりかけている。後は明日に回してもいいだろう。
「僕も、もう終わりますよ。一緒に帰ります」
『・・・んじゃ、着替えたら迎えさ行く』
「大体、15分後くらいですよね。三階まで来るの面倒でしょうし、旧校舎の入り口のとこで」
 わかった、と短く答えて、スーさんことベールヴァルドは電話を切る。彼も北欧研究会のメンバーなのだが、剣道部を兼部しているのだ。彼だけでなく、メンバー全員ほかの部と兼部している。たとえば、会長のデンさんはバスケ部だ。
 ティノは手早くファイルなどを片づける。そして、カバンを持つと部室の電気を消した。
 と、そこで唐突に尿意をもよおす。
「う・・・残りのリンゴジュース一気に飲んだのが、あれだったかな・・・」
 ティノはちらりと廊下の奥を見る。一番近いのは三階奥のトイレだ。だが・・・。
(あそこのトイレ、怖いうわさがあるんだよな・・・)
 昼間はいいが、この時間は。
 が、そこでちらっと廊下の奥で人影が見えた。
(あ、誰かいる)
 照明は薄暗く、取り換えてくれと頼んでいるのになかなか取り換えてもらえない蛍光灯がまたたいていて、誰だかはよくわからなかったが。
 あそこで曲がれば、トイレしかない。
(誰かいるんなら・・・)
 ティノは、だっと走り出した。

「ふう・・・」
 用を足して、ティノはハンカチを取り出すとカバンを小脇に抱え、ハンカチを口にくわえて水道の蛇口をひねった。
 冷たい水が手の上に注ぐ。
 ぱしゃぱしゃと手を洗って、咥えていたハンカチで手を拭く。
 そして、ちらりと背後を振り返った。
 一番奥の個室。
 そこが、ティノがトイレに来た時から閉まっている。
 多分さっき見かけた人が入っているのだろう…が。
(なんか・・・長い、な)
 水音も聴こえない。まるで誰もいないかのように、しんと静まり返っている。
 なんだか、一瞬嫌な感じが背中を這う。
 しかし、ティノは首を振ってその予感をかき消す。
(え・・・と・・・そうだよ、なんか、具合が悪いのかもしれない・・・)
 そう思うと、逆に心配になってきた。このトイレは古いし、緊急用のボタンなどもついていない。
 もし、中で気分が悪くなってなどいたら。
 ティノは少し逡巡したが、やがて個室の前へと足を進めた。
 そして、ためらいがちに、とんとん、と戸をノックしてみた。
 すると。
 3秒ほどたっぷり間があって。
 コツ、コツ、と。
 軽いノックが返ってきた。
(あ、よかった。ちゃんと元気なんだ)
 ティノは胸をなでおろすと、すいません、失礼しました、と言ってトイレを出た。
 −が。
 角を曲がったところで、ふと携帯がないことに気づく。
(あ、しまった、トイレに置いて来ちゃった…)
 カバンからハンカチを取り出そうとした時、ちょっと鏡の前に置いたのだ。
「まったく、何やってんだか・・・」
 もうすぐ、スーさんが来てしまう。
 ティノは慌ててトイレに戻る。
 そして。
(あ、まだ、入ってる・・・)
 奥の個室は、まだ扉が閉まったままだった。
 返事が来たとはいえ。
「あの・・・」
 ティノは思わず声をかける。
「大丈夫ですか?具合が悪いとかだったら、誰か呼びます?えっと・・・」
 しかし。
 ティノの言葉はがらんとしたトイレに反響するだけだった。
 再び。
 奇妙な怖気がティノの心に渦のように沸き上がる。
(いや、だって、さっきノックが返ってきたじゃないか・・・)
 ティノはおそるおそる扉の前に立ち。
 あの、ともう一度呼びかける。
 しかし、やはり返事はなかった。
 誰の気配もなく。
 トイレは静まり返っている。
 ティノはごくり、と息をのむと。
 そっと、ノブに手をかける。
 それを回してみる。
 が。
(鍵・・・かかって、る、よね)
 ティノはさらに迷ったが。
 カバンを抱え、しゃがんでみる。
 トイレの扉は、少しだけ下が空いている。
 もし、誰かがいるなら。
(足が見えるはず・・・足が・・・)
 ティノは、思わず叫びそうになって口に手をあてる。
 いない。
 誰の足も・・・見えない。
 ティノは片方の手で押さえた口に、さらにもう一方の手を重ね、必死に悲鳴を押さえながら、立ち上がる。
 よろり、と後ろの壁にぶつかった。
 そして、盲人のように壁を手で探りながらトイレの入り口までくると、全速力で走りだした。

(遅ぇな)
 旧校舎の入り口で柱にもたれて待っていたベールヴァルドは、腕時計に目を落とす。約束の時間は過ぎていた。
 時間に正確なティノにしては珍しい。
 部室に行こうか、と身体を起こした時だった。
 口を手で押さえたティノが、校舎から猛スピードで飛び出してきたのだ。
 おい、と声をかけようとしたベールヴァルドは、ティノのただならない様子に気づく。そして、ティノはベールヴァルドの姿に気づかない様子で、柱の横を走り抜けようとするので、ベールヴァルドは彼の前に腕を出した。
「わっ」
 ゴールテープを切るようにベールヴァルドの腕に突っ込んだティノは、びっくりして上を見上げる。
「なじょした?」
 口から手を離し、丸い目をさらに丸くしてベールヴァルドを見上げていたティノは、やがてじわっと涙を浮かべた。
「スーさ・・・っ」
「?」
「僕・・・あの、トイレで・・・っ」
「トイレ・・・?」
 よしよしとティノの銀色の髪をなでながら、ベールヴァルドが怪訝な顔をする。
 そうして、要領を得ないティノの説明を辛抱強く聞きだしたベールヴァルドは、ふうむ、と唸った。
「お、おばけですよね?旧校舎の七不思議は本当だったんですよ!ど、どうしましょう、スーさん、僕もう、明日から旧校舎入れませんよ!!」
 うーん、とまた唸ったベールヴァルドは、行ってみんべ、とあっさりと言った。
 は?とティノは目を丸くする。
「行くって、どこへです?」
「トイレ」
「え、ええええ!?ま、待ってくださいよ、ぼ、僕は嫌ですよ、怖いですよ!」
「ティノは待っててええ。一人で行ってくる」 
 え、えええ、ええええ、と青くなったティノだが、さっさと校舎に向かって歩き出そうとするベールヴァルドの姿を見て、ま、待ってくださいよお、と追いかけた。あのトイレに行くのも嫌だが、今ここに一人で残されるのも嫌だ。それに、スーさんがいるなら、たとえ何が出ても平気な気がする。
 へっぴり腰でベールヴァルドのシャツをつかんだティノを連れて、ベールヴァルドは問題のトイレに向かう。
 すると、確かに電気が付いたままのトイレの一番奥の個室が閉まったままになっている。
 おひえええ、とティノが小さく悲鳴を上げる。
 中に入ると、さすがにティノが手を離した。
 す、スーさん・・・とよわよわしい声が聴こえてくる。
 ベールヴァルドは恐れる気配もなく近づくと、隣のトイレに入り、便器の上に乗った。
 そして、隣の閉まっているトイレを上から覗き込む。
「す、スーさん!!」
 驚いて入口のティノが叫ぶと。
「だえもいねぞ」
 そう言うと、ベールヴァルドはさらにティノを驚かせる行動に出る。ひょいっとしきりを乗り越え、問題の開かずのトイレに降りてしまったのだ。
「スーさん!!」
 鍵の開く音がして、開かずのトイレから長身が現れる。
「ノックが返ってきたんだな?」
 うんうんうん、と入口にしがみつくようにしながらティノが答えるのを見、それからベールヴァルドはトイレの中を見て、ふむ、と首をひねった。

「スーさん・・・部室、変えてもらいましょうよ・・・」
「他に場所ねえべ」
「う、う、だって、だってえ」
 えぐえぐしているティノの手を引きながら、ベールヴァルドは旧校舎を出る。
 そして。
(ん?)
 ふと、影に気づいて顔を上げた。
(あれ・・・?)
 薄い星の明かりのもと、屋上で動いた人影。
(屋上にはだえも入れねはず・・・)
 人影はすぐ消えた。
(見間違いか?)
 ベールヴァルドは目を細める。
「あの・・・スーさん、どうしました?」
 ベールヴァルドの態度に気づき、ティノが声をかける。
 ベールヴァルドはティノを振り返り、じっと見下ろすが。
 怯えきっているティノを見つめ、いや、と首を振った。
 これ以上怖がらせることはないだろう。
 明日、皆に話してみよう、と思いつつ、しばらくは家の前まで送っていってやろう、と心に決めるベールヴァルドだった。

 学園七不思議。

 1.誰もいないはずのトイレからすすり泣く声がする。
 2.真夜中に三階踊り場の合わせ鏡に顔を映すと、8番目の顔だけが笑っている。
 3.夜中に音楽室のピアノがひとりでに鳴り始める。
 4.理科室の人体模型が夜になると動き出す。
 5.夜中になると、一段増えている階段がある。
 6.誰もいないはずの体育館で、ボールをつく音がする。
 7.7番目の不思議を知ったものは死んでしまう。

「えーと、明日は数学と国語と・・・」
 カバンに明日必要な教材を入れていく。ほとんどのものはロッカーに置き勉してあるのだが、課題などがあって持ち帰っているものもある。
「後、三日で夏休みですねえ・・・」
 一年中暑いセカンドインパクト後の日本では、季節感も何もあったものではないが、それでも休みは単純にうれしい。
 たとえ、張り切ってアントーニョが作っている強化訓練三昧であったとしても。
「これでよしと。さて、寝ますかね・・・と」
 くるりと振り向いた菊は、しかし、ぎょっとして固まった。
「あ、アルフレッドさん、いつから、そちらに・・・?」
 いつの間にか扉が開いており、そこに、パジャマ姿のアルフレッドがぬぼーっと立っていたのだった。
「アルフレッドさん?どうしました?」
 なんだか様子のおかしいアルフレッドに近づくと、菊が目の前で手を振る。
 すると、その手をがしっとアルフレッドが掴んだ。
「ひえっ」
「菊・・・さっき・・・なにげなく、テレビつけたんだよ」
「はい?」
 テレビ?アルフレッドはけっこうテレビっこなので、それ自体は珍しくもないが。
 彼の顔はひどく真剣だ。いや、真剣というか、これは・・・。
「それで、『学校の七不思議』って特集やっててさ・・・」
「はあ、七不思議って、あの花子さんとかですか?」
 目を瞬く菊に、そうさ!とアルフレッドがぎゅっと手に力を込める。
「Mr.金次郎が校庭を全力疾走したりする、あれだよ!!オレ、学校がそんな怖いところだなんて、全然知らなかったんだぞ!!どうしよう、明日から学校行けないんだぞ!!」
 うええええ、と涙ぐむアルフレッドを不思議なものを見るような目でまじまじと菊は見つめる。
「・・・怖い、ですか?全力疾走する金次郎さんが」
「怖いよ!!君は怖くないっていうのかい!?」
「ええ・・・まあ・・・怖くない、こともないですけど・・・」
 曖昧に答える。
(学校の怪談なんて、どこにでもある子供だましだと思いますが…)
 驚いているのは、このアルフレッドの反応だ。まさか、こんなに。
(怪談が苦手だとは・・・)
 むしろ喜びそうな話だと思っていtが。
 人とは見かけによらないものである。
「まあ・・・あれですよ。もうすぐ夏休みですし、ね。昼間なら、お化けは出ませんよ」
「そうかな?」
「そうですよ。私たちは部活も出来ませんし、授業が終わったら、とっととネルフに行ってるじゃないですか。お化けと出会うような時間帯に学校には行きませんし。ネルフは使徒すら入ってこれない鉄壁の要塞です。お化けも入れませんよ」
 にこりと笑ってやる。すると、アルフレッドはほっとした顔をする。が。
「・・・で、そろそろ手を離してくださいませんか?明日もありますし、寝ませんと」
 菊が笑顔のままそう言うと、あ、うん・・・とアルフレッドにしては珍しく歯切れの悪い返事をするが。
(離してくれない・・・)
 菊はアルフレッドを見つめる。目が不安げに泳いでいる。まさか。
「あの・・・アルフレッドさん、まさか」
「菊!今夜、一緒に寝てもいいかい!?」
 えええええ!?という驚きの声が、喉まで出かかったが、しかし、菊はごくんと飲みこんだ。
 アルフレッドにもプライドというものがあるだろう。
 しかし。
(一緒に・・・)
 そわそわした。
「あの、私のベッドに二人じゃ、狭いとは思うんですけど。よかったら、下に布団を敷いて・・・」
「やだ。そしたら、ベッドの下が見えて怖いじゃないか。そこにお化けがいたらどうするんだよ」
 いや、どうするんだよって言われても。
「え、じゃあ、私が下でも・・・」
「菊」
 アルフレッドが名を呼ぶ。そして、目をうるっとうるませて、呟いた。
「オレと一緒に寝るの、嫌なのかい・・・?」
 菊は、目の前がくらっとするのを感じ、そして―陥落した。

「ありがとう、菊ww」
「え、まあ、いいですけどね。落ちないでくださいね」
 狭いベッドの上で、タオルケットだけかけて横になる。
「大丈夫なんだぞ♪」
 そう言う彼は、確かにこういう寝方に慣れているように見えて。
 ああ、そうか、と菊はふと思う。
(たぶん…)
 本当に彼は慣れているのだ。
 怖いものを見てしまった時、彼をベッドに迎え入れていたのは。
 副司令か、もしくは・・・。
 菊は、意味もなくちょっと鼻をかいた。
「ねえ、菊。手・・・つないでいいかい?」
 すぐ横で小声で言われて、菊はアルフレッドの方を向く。
(わ、近・・・)
 どきっとして、菊はすこし顔を離した。
「そ、そんなに怖いんですか?」
「え、う、えっと、こ、怖いっていうか・・・その、落ち着かないっていうか・・・」
 下を向いて赤くなるアルフレッドを見ていたら、なんだか子犬のように見えてきて、ぷす、と菊は笑った。
「き、菊!」
「はいはい、いいですよ。ほら」
 菊が手を差し出すと、アルフレッドの顔がぱっと明るくなって、うん、とその手を掴んだ。
 そして、ねえ、とアルフレッドが再び口を開く。
「菊は、お化け怖くないのかい?」
「全然怖くないと言ったらウソになりますが…それほど、怖くはありませんね」
 見たこともないし。
「そうかあ、菊はすごいなあ」
(使徒に突っ込んで行ける人が何を言うやら)
 思わず苦笑する。
「菊は、怖いもの、ないのかい?」
 少しうとうとしながら、アルフレッドが聞く。薄闇に目が慣れてきた菊は、カーテンの隙間から注ぐ星明かりに照らされたアルフレッドの輪郭を目でなぞる。金色の髪、白い肌。青い瞳。アジア系である菊には、持ちえない色。西洋絵画で見る天使の持つ色だ。尊いものは金の髪、白い肌、青い目をしていると伝えられてきたのだ、あちらでは。
 アルフレッドは、それを持つのにふさわしいと思う。
 特に、あの人にとってはそうだろう。
 菊は、微笑みながら口を開く。
「・・・少し前までは、なかったかもしれません」
 ほんの少し前まで。
 使徒と戦うこと。それだけが、自分のすべてだった。
 自分はその為に作られたのだから。
 そうすれば―あの人がほめてくれるだろうから。
 あの人が認めてくれるなら、死ぬことも怖くはなかった。
 ただ、誰にも必要とされず、あの人に失望されながら死ぬこと―そう、怖いというなら、それだけを恐れていた。
 でも。
「今はできましたよ、怖いもの」
「へえ?」
 眠りに落ちようとしていたアルフレッドの瞼が、少し押し上げられる。
「何が怖いんだい?」
「秘密です」
 くす、と笑いながら菊が答える。すると、アルフレッドは少し口をとがらせた。
「なんだ、オレがやっつけてやる・・・の・・・に」
 しかし、それが限界だったようで、アルフレッドはゆっくりと引きこまれるように目を閉じた。
 やっつけてやるのに。
 菊は、目を閉じたアルフレッドの顔を柔らかいまなざしで見つめる。
(それは無理です)
 心の中で答える。
 だって、私は。

 ―貴方を失うのが、怖くなりました。
 
 身体を少し起こして、タオルケットを直してやる。
 そして。
 はっと気付いた。
 ベッドの上に、二人。手をつないでいる。
(ななな、なんですか、このシチュエーションは!まさしく恋愛ゲームまっさかり!)
 ちょ、どうしよう。
 菊は、一人で今更にうろたえはじめる。
(え、えっと、アルフレッドさんもおやすみになられたようですし、ここはこっそりベッドを出て・・・いえ!さすがに手を離したら、起きてしまうかもしれないし…)
 悶々と菊が悩んでいた時だった。
 あ、とアルフレッドが、ぼんやり目を開く。
「忘れてた」
 は?
 思わずアルフレッドの方を向いた菊を見つめ、それから相変わらず夢心地のまなこのまま。
「おやすみ」
 と言いながら、少し首を伸ばして。
 菊の口にちゅ、と。

 キスをした。

 むにゃ、と意味不明の声を漏らし、それから満足したようにアルフレッドは深い眠りに入っていった。
 そして、本田はと言えば。
 見事に凍りついていたが―やがて、ぼん、と爆発した。

             

「あんの、くそまゆげええええ!」
 帰って早々、アントーニョが叫ぶ。
「いきなり何言って・・・って、うわ、おまえ、飲んできたな」
 玄関まで迎えに出たロマーノは、酒の匂いに顔をしかめる。
「あー、ちょっとな。ロマーノ、水くれや、水」
 バッグを放り出すと、どかっとソファの上に寝転がる。
「それのどこがちょっとだよ・・・まったく、おまえ、酒強いくせに、どんだけ飲んだんだっての」
 ぶつぶつ言いながら、ロマーノはキッチンでグラスに水を注ぐと、ソファへと持って行ってやる。
「ほら、飲めよ」
 しかし、自分でほしいといったくせに、ん〜と、アントーニョは顔をそむける。額の上に腕を載せていた。
「あ〜も〜ホント、腹立つわ、あのまゆげ。まゆげ撲滅やあっ」
 腕で目元を隠しつつ、うがあ、と吼える。
 やれやれ、とロマーノはグラスをテーブルの上に置いた。
「飲まねえんなら、着替えて寝ろよ。明日も仕事だろ?」
 言いながら、ソファに浅く腰かける。
(指令とアントーニョって、ほんと水と油だよな・・・)
 何かというと喧嘩だ。ヘタしたら、殴り合いだ。本当に大人だろうか、と半眼になることが多い。
(これが人類防衛最前線だってんだからなあ)
 はあ、とロマーノが頬杖をつく。
「ああ・・・でも、まゆげのうなってしまったら、困るか・・・」
 ぶつぶつ言ってるアントーニョを見下ろし、ロマーノはアントーニョのほうへかがむ。
「やっぱ、おまえ、水のんどけ。でないと、後で喉渇くぞ」
 ん〜と、アントーニョが腕を持ち上げる。そして。
「い?」
 アントーニョが、ロマーノの頬を両手でしっかり掴んでいた。
「な、な・・・っ」
 酒の靄がかかったアントーニョの碧の目が、うっとりとロマーノを見上げる。
「あーロマーノは、かっこええな・・・男前やんな」
「は、はあ!?」
 ぼん、と赤面する。
「と、突然、何言うんだ、てめーはっ」
 にこーっと、アントーニョが微笑む。
「ロマーノのまゆげは可愛ええわ」
 まゆげ!?
 え?かっこよくて、男前なのも、まゆげなのか?
 混乱したロマーノが白目になっていると、するっとアントーニョの手が片方ロマーノの肩というか、首の後ろに回される。
(え?)
 ロマーノが目を瞬く。
「ロマーノ」
 もう片方の手も、同じように後ろに回される。
(え、ちょっと待て、ちょっと待てよ、この姿勢って、あの・・・)
 映画とかだと、大体この場合・・・。

「ロマーノはガンバリ屋で男前で・・・ええ子やね」

 言いながら。
 動けないでいるロマーノの上半身を引き寄せて。

 ロマーノはゆっくりと目を見開く。
 たゆたうような酒の匂いと。
 妙に大きく響くエアコンの音と。
 蕩けるような碧。
 
 重なり合った、唇。
 これって。

 これって。
 俗に言う。

(ええええええええええええええええええええええええええええ)

 リビングのソファの上で。

 これが、ロマーノのファーストキスというやつであった。

「おーロマーノ、おはよーさん。すまんなー昨日飲み過ぎたみたいで寝坊してもーた。朝ごはん、トーストと目玉焼きだけやけど、勘弁したってな」
 リビングに現われたロマーノに、フライパンを持ったまま、アントーニョが振り返る。
 が。
 ロマーノが返事を返さずにじっと突っ立ってるのに異変を感じて、アントーニョは首をかしげる。
「ん?どないした?変な顔して。お腹でも痛いん?」
 そして、おっと、と焼けてきた目玉焼きを皿に移す。その背中に、ロマーノの低い声がぶつかる。
「おまえ・・・覚えてねえのか?」
 うん?と、フライパンを置いたアントーニョがエプロンをはずしながら、振り返る。ロマーノの目が険悪になってきている。
 あれ?とアントーニョは心の中で呟く。
 機嫌が、悪い。
 らしい。
 アントーニョはリビングのテーブルを回ってロマーノに近づく。
「え?なんやて?」
 ロマーノの眉間にしわが刻まれる。相変わらず立ちつくしたまま、近づいてくるアントーニョを睨みつけた。
「だから、おまえ・・・ほんとに、覚えてねえのかっつってんだ。その・・・昨日の・・・」
 言いながら、なぜかロマーノが目をそらす。
 昨日?
 アントーニョは昨夜のことを思い出す。
 まゆげと喧嘩した。
 途中で酔ったバーでまゆげ撲滅を掲げながら飲んで・・・飲み過ぎて。
 その後、記憶が、ない。
 見下ろせば、怒りの表情で目をそらしたロマーノ。
 さーっとアントーニョは青くなる。
 そして、頬をかいた。

「えっと、何を?」

 次の瞬間。

 ロマーノの渾身の右ストレートがアントーニョに繰り出された。

 がしゃーん!
 すごい音がして、思わずアルフレッドは上を見上げる。
 ロマーノとアントーニョのマンション。
 その13階のまさに二人の部屋から。
 窓をぶち割って、何かがすごい勢いで飛び出した。
「あれ?アントーニョ」
 きら、と青い空に消えたアントーニョの軌跡を目で追いつつ、アルフレッドはぽりぽりと頬をかく。
 そして、ねえ、菊、と振り返り。
 それから、はあ、とため息をついた。
「よお」
「あ、ロマーノ」
 ぱっと振り向くと、ガラス張りのエントランスからポケットに手を突っ込んだロマーノが出てくるところだった。
「なんか、さっきアントーニョが飛んでくとこを見た気がするんだけど」
「気のせいだろ」
 負のオーラをまといながらそう言ったロマーノに、思わずアルフレッドは口をつぐむ。
(なんか・・・聞いちゃいけない何かがあったっぽいんだぞ・・・?)
 アルフレッドがとりあえずこの話題には触れないようにしようと決めた時、ロマーノがぎょっとして立ち止まる。
「な、なんだよ、これ!?」
 ロマーノの視線の先を見て、アルフレッドはああ、とこれはこれで困った問題に眉を寄せる。
「菊なんだぞ」
「なんだぞって、おま、これ、完全にポリゴンじゃねーか」
 ロマーノは思わず叫ぶ。ロマーノの視線の先では、ひと世代どころか三世代くらい前のカクカクのポリゴン映像と化した本田菊が自転車に乗っかっていた。
「朝からずっとこうなんだよ」
 腕組みするアルフレッド。
「ん・・・?」
 なんだかぶつぶつ言ってることに気づき、ロマーノが耳を寄せると。
「責任とってください責任とってください責任とってください・・・」
 と、エンドレスに呟き続けていることがわかり―。
 一瞬固まったロマーノは。
 ぎぎぎ・・・と音がしそうなほどぎこちない動作でアルフレッドを振り返る。
「おい、アルフレッド・・・」
「なんだい?」
 ごくん、と息をのんだロマーノはやや目を泳がせながら、言った。
「おまえ・・・昨日、なんかしたか?」
「なんか?」
 アルフレッドの中で昨夜の光景がよみがえる。そして、かあっと赤くなった。
(お、お化けが怖くて一緒に寝てもらったなんて、ロマーノには言えないんだぞ・・・!)
「な、何にもしてないんだぞ!」
 しかし。
 アルフレッドの反応を見たロマーノは、口をあんぐり開けて既に固まっていた。
「ロマーノ!?ロマーノ、どうしたんだい!?ちょ、待ってくれよ、君までおかしくなっちゃったら、オレはどうしたらいいんだい!?」
 慌てるアルフレッド。

 そして、マンションの反対側では。
 漫画よろしく人型に開いた穴の中で、アントーニョが目を回していた。

 屋上には、心地よい風が吹いていた。
 今日は暑さもさほどではなく、真夏というより初夏の陽気。
 目の前に見える旧校舎の屋上は危険な為閉鎖されているが、新校舎の屋上はランチなどの為に解放されている。
 今、屋上には数人の生徒の影が見える。
 その中に、お弁当を広げたロマーノと菊の姿があった。
 アルフレッドは委員会活動で今日はランチは別だった。
 朝からポリゴン状態が治らない菊を心配して(フェリクスは面白がってつつきに来るわ、サディクも教室に入ってきて「なんでえ、これは」と騒ぎだすわ、それなりに大変だった)、「頼んだんだぞ、ロマーノ!」と言いながら、委員会へ向かったが…。
(多分・・・)
 あいつがいないほうが。
 そう思いながら、ロマーノは買ってきたサンドイッチの袋を開ける。今日はアントーニョが寝坊したため、弁当はなしなのだ。
 菊がポリゴンだったため、菊とアルフレッドも今日は買い弁だ。菊の膝の上にはロマーノが適当に買ったパンが乗っている。
「おい・・・本田」
 ちゅう、と野菜ジュースをストローで飲んだロマーノは、校庭を見下ろしながら口を開いた。
「何があった」
 そして。
 たっぷり三秒ほど間があって。
「なななな何もありませんよ!」
 と、突然本田が覚醒した。
 ロマーノは半眼で菊を見た。
「何もなくてポリゴンにはなんねーだろ、おい」
 すると、菊は口の端を震わせる。
「は、はは・・・いや、ほんとに何も・・・してませんったら、キスなんてえええええっ!」
 は、と我に返った菊と、ストローを口から離してぽかんとしたロマーノが目を合わせる。
「うわああああっ!」
「落ちつけ、本田ああああっ!!」
 がしゃんがしゃんと屋上のフェンスを乗り越えようとし始めた本田を、慌てて抱きついて止める。屋上の生徒数人に好奇の目を向けられ、ロマーノは、な、なんでもねーよ!と叫んだ。
「あ、あのな、キスごときで、おまえ、そんな・・・」
「ご、ごときですってえ!?」
 フェンスに取りすがったままの菊を後ろから押さえつつ、ごにょごにょと囁くと。
 キッと菊がロマーノを見つめる。
「え、いや、だって、さあ。まあ、こっちの奴はあんましねえみてーだけど、欧米じゃ親しい仲ならキスくらい普通だぞ?こないだも、おまえ、ほっぺにされてただろ?」
 言いつつ、ああ、あの時も菊は素っ頓狂な声あげてたなあ、と思い出したが。
 菊はわなわなと両手をわななかせながら、やや前かがみになりながら、ロマーノを見上げる。
「いえね・・・わかってますよ。文化の違いってものがあるってことは・・・だ、だから、これでも頑張って慣れたんです。ほっぺにキスくらいは・・・でも・・・でも・・・!」
 菊が下を向きながら、怒鳴った。
「唇は反則でしょう!ねえ、そう思いませんか!?私、あれが、ふぁふぁふぁ、ふぁーすとき」
「うわあああああ!まあ、ちょっと、落ちつけよ、な!?」
 不穏な菊の発言を叫んでかき消しつつ、どうどう、と菊をなだめた。

「いや・・・まあ、あれだよな」
 ひと段落して、座りなおしたロマーノは、はは、と渇いた笑いを浮かべながらサンドイッチを手に取った。
「好きな奴と暮らしてんだ。色々あるよな」
 すると。
 は?という声が横から聴こえた。
 え?と、思わずロマーノが菊の方を見ると。
 ハトが豆鉄砲くらった、というのはこういうのを言うんじゃないかな、という顔の菊が、ロマーノを見つめていた。
「え、いや、だって、おまえ・・・」
「好き?私が?アルフレッドさんを?」
 一瞬ロマーノの頭が白くなる。
「はあ?はあああああ!?」
 ばさ、と菊の膝の上からコロッケパンが転げ落ちる。
 菊はいやいやするように、黒いまっすぐな髪をばさっと振った。
「はああああああああああああああ!?」
「いや、待てよ!?」
 思考がフリーズしかけたロマーノがようやく復活してきて、菊の声を遮る。
「まさか、おまえ、気づいてなかったというんじゃないだろうな!?」
「ききき気づいてなかったって、なんですか!?それじゃまるで、私がアルフレッドさんを」
「だから、好きだっつってんだろ!おまえ、どっからどう見てもきっちりはっきりあいつが好きだろうがよ!?」
 後ずさった菊の肩を乗り出して掴む。もはや、二人とも周りの視線を気にかける余裕はなかった。
 二人は思わず息を止めて、見つめ合う。
「おまえさ・・・オレのこと、あんなにはっきり断言しといて、それ、なくね?」
 ロマーノの呟きの上を、一羽のカラスが飛んで行った。

「へ・・・?七不思議・・・?うちのがっこに、そんなの、あるのかい・・・?」
 牛乳パックのストローから口を離して、アルフレッドが口を開く。
「あ?おめえ、知らねえのか?」
 委員会が終わり、教室へと戻ってきたアルフレッドは北欧組がランチをしているところに通りかかったのだ。
 デンさんが椅子の背もたれに肘を引っ掛け、足を組んでアルフレッドを見上げる。
「結構有名だぞ。スタンダードなやつだどもな。それを昨日、ティノが体験したっつー話をしてたところだべ」
「ティノが・・・へ、へえ?」
 アルフレッドが頬をひきつらせたのを、幸い誰も気づなかったようだった。
「旧校舎の三階奥のトイレで、誰もいないのに鍵がかかってて中からノックが返ってきたんだってさ」
 ひとつ下の学年なのだが、いつも兄のノルと共に北欧組でランチをしているアイスがいつも通り興味があるんだかないんだかわからない口調で言う。
「だ、誰もいなかったって・・・、そんなのわかるのかい?」
「スヴィーが見たんだべな」
 腕組みしていたノルが、ベールヴァルドを見る。ん、とベールヴァルドがうなずく。
 ベールヴァルドが簡潔に昨日の状況を説明する。
 やや青ざめてきたアルフレッドが、思わず口を開く。
「や、で、でもさ。君が上から入れたくらいなら、簡単に鍵をかけたまま、外に出られるじゃないか。ティノをひっかけるために、誰かがそうやって外に出たんじゃないのかい?で、隠れてたとか・・・」
 すると、そこまで黙っていたティノがアルフレッドを見上げて抗議の声を上げる。
「ぼ、僕が携帯を取りに戻ってくるまで、そんな時間ありませんでしたよ!?あのトイレは用具入れもない小さなトイレだし、窓は小さくて人は出入りできません。唯一の出入り口の廊下は僕がいましたから、通り抜けるのは無理です」
 アルフレッドはますます青ざめながら、再び口を開く。
「あ、でもさ、ほら、そうだ、君は下から足を確認したんだろ?それってさ、便器の上に乗ってたら、わかんないじゃないか。ね、きっとそうしたんだよ。で、ベールヴァルドと一緒に戻ってくるまでの間に上から出て逃げたんだって」
 すると、一瞬沈黙が支配した。
 え、とアルフレッドがきょろりと一同を見回した時。
「そんな・・・何のために、そんなことするんです・・・?」
 ティノの押し殺した声がアルフレッドの耳に届く。え、とティノの顔を見ると、ティノは涙ぐんでいた。
「誰かが僕を怖がらせるために、そんな手の込んだことしたって言うんですか・・・?」
「え、いや、あの!」
「おいおい、アルフレッド」
 がたん、と音がしたと思ったら、デンさんが立ちあがっていた。
「うちの泣かせるのは、感心しねーべな?」
「え、や、えと・・・」
 アルフレッドは両手を上げながら、冷や汗をかく。
(だって、だって)
 この学校に幽霊がいるなんて考えたら、怖くて学校に来れないじゃないか!!
 心の中で叫んだアルフレッドは、ははは、と渇いた笑いをもらす。
「だ、だってさ、お化けなんているわけないじゃないか!そんなの信じるなんて、子供なんだぞ!」
 思わずアルフレッドが言った途端。
 がた、という音と共に背後に威圧感を感じる。
(あちゃー)
 完全に北欧組を敵に回したな、と思ったその時。
「確かめてみればええべ」
 という、さらっとした声が緊張した雰囲気を切り裂いた。
 へ、とアルフレッドが声のした方を見ると。
 弁当箱のふたを閉じながら、ノルがアルフレッドを見あげた。
「おめが夜に学校さ来て、確かめてみればええべ」
「は・・・っ」
 何を馬鹿な、と青ざめたアルフレッドが抗議するのを待たず、お、とデンさんが声を上げる。
「さすがノル、ええ意見だっぺ。じゃ、今夜は皆で幽霊退治だな!」
 笑顔で言い切ったデンさんが、ばん、とアルフレッドの背中を叩く。
 え、えええ、と恐怖の声をあげたティノを、一縷の望みを託して見つめると。
 ベールヴァルドが口を開いた。
「オレが守る」
「スーさ・・・っ」
「ちょ!相手はお化けなんだよ!?そういうラブロマンス的なアレで・・・っ」
 NO!と叫んだアルフレッドの肩にデンさんが肘を載せる。
「ん〜?お化けなんているわけないんじゃなかったっぺか?まさか、おめえ、怖えとか・・・」
「そんなこと、あるわけないだろ!オレはヒーローなんだぞ!大体、お化けなんているわけないし!いいよ!行ってやるさ!」
 目をつぶってそう怒鳴ったアルフレッドは、目を開くと自分を見つめる北欧組を見渡す。
 そして、ただし・・・と呟いた。

          

 全身傷だらけの上に、ぼろっとした服装で昼ごろにようやく現れたアントーニョの姿を、ギルベルトは思わず立ち止まってしげしげと眺める。
「どしたよ」
「・・・ロマーノに、13階から突き落とされてん」
 しくしくと肩を落としたアントーニョに、一瞬ギルベルトは言葉を失くす。
「13階から」
「気が付いたらクレーターの中で気絶しとってな。通りかかったOLのねーちゃんが呼びかけてくれて気づいたんやけど。あ、この絆創膏、その姉ちゃんが貼ってくれてん」
 言いながら、ほっぺに貼られたうさぎちゃんのイラストが入ったピンクの絆創膏を指さす。
 ギルベルトは半眼になって腕を組んだ。
「や、オレは13階から落ちて絆創膏一つで済むおまえの身体の構造が知りてえよ。解剖させろ」
「なかなか、今日のメイクは決まってるじゃねえか。いつもより美人だぜ」
 背後からかけられた声に、アントーニョははっとして振り向く。そして、キッと目を釣り上げた。
「そうなの、春の新作なの〜♪って、ちゃうわい!うっとおしいわ、おまえ!」
 そういえば・・・とアントーニョはずかずかとアーサーに近づく。
「元はと言えば、ロマーノが機嫌悪うなったん、おまえのせいや!死ね!死んで詫びや!」
「はあ?何わけわかんねーこと言ってんだ。おまえが死ね」
 ぐぬぬぬぬ、と額を突き合わせて今にも殴り合いになりそうな二人を見つつ、やれやれとギルベルトが肩をすくめる。
「なんでロマーノとアーサーが関係あんだよ」
 アルフレッドや菊のことならともかく、アーサーにとってロマーノなどどうでもいいことこの上ない存在だろう。
「昨日こいつと喧嘩してムカついたから、やけ酒して帰ったんやけど、そのときなんかロマーノ怒らせたらしいねん。全然覚えてへんのやけど。てなわけで、こいつが元凶や」
「おまえ、それ、まごうかたなき言いがかりだろうがあああっ!」
「オレもそう思うぞ」
 ああああ、とアントーニョが頭を抱えて天井を仰ぐ。
「オレ、何やったんやろー!!」
 はっと目を見開く。
「ぼ、暴力とか振るってたら、どないしよ!」
 あわわ、と携帯を取り出すと、ぴっと番号を呼び出す。
「や、暴力っつーか、おまえは酔うとどっちかってえと・・・」
 ギルベルトの呟きを無視しながら、携帯を耳に当てる。ぷるる、という呼び出し音が響いた。

「まあ・・・よ」
 階段を降りながら、ロマーノが言う。
「嫌じゃ、なかったんだろ?」
 アルフレッドが好きなんだ、と断言されて茫然自失していた菊が、一瞬沈黙した後、ええ、と低く答えた。
 ポケットに手を突っ込みながら、ふう、とロマーノが天井を見上げる。
 嫌なわけない。
 好きな相手なのだから。
 そういえば。
 今まで、なんとなく忘れていたが。
(オレも・・・したん、だった)
 途端に、かあっと赤くなる。
 思わず口元に手をやる。
 首の後ろに回された手。
 熱っぽい視線。
 近づいてくる・・・。
 ―嫌じゃ、なかったんだろ?
 一瞬前の自分の言葉がリフレインする。
「嫌な・・・わけ・・・」
「どうしました、ロマーノさん」
 いつのまにか立ち止っていたらしい。突然赤い顔をして立ち止ったロマーノを数段下で、怪訝そうに菊が見上げている。
「や、なんでもねえ。行こうぜ」
 ロマーノは菊を追いぬいて階段を下りると、教室へと向かう。すると、教室の扉の前で携帯が鳴った。
『ロマーノォ!』
 発信者の名前を見て通話ボタンを押すと、アントーニョの泣きそうな声が飛び込んできた。
「・・・・」
 思わずロマーノは目を泳がせる。
『オレ、オレ、なんや、ほんと、何したんか覚えとらんのやけど、ロマーノ、傷つけたんやったらごめんな!ほんと、謝る、謝るから、許したって、ロマーノ!』
 電話の向こうで今にも泣き出しそうなアントーニョの顔が浮かぶ。
 ロマーノはアントーニョの声を目を閉じて聞く。
(馬鹿な奴)
 電話を取ったまま、一言もしゃべらないロマーノを、不思議そうな顔で菊が見つめている。
(しょうがねえ、許してやるか)
 13階からふっ飛ばしたし(そういえば、よく無事だな)。
 許しの言葉を口にしようとした時だった。
『やっほーマイスイートハニー♪アントーニョ、飯行こうぜ〜』
 能天気な声が耳に届き。
 次の瞬間、ぶちっと携帯を切っていた。
 そして、教室の扉に手をかけると、肩を震わせながら押し殺した声を出す。
「あんのやろぉ・・・・絶対に許してやらねえ・・・」
 ガラッと引き戸を引きながら、ロマーノは怒鳴った。
「ぎったんぎったんにしてやるからなああああ!」
「おお、ロマーノ、やる気だっぺな」
 へ、とロマーノが目を瞬かせると。
 北欧組に取り囲まれたアルフレッドが、救い主を見るような目でロマーノを見つめていた。

「あれ?どうしたんだ?」
 笑顔で片手を上げたまま、フランシスは異変を察知して立ち止まった。
 ギルベルトとアーサーが何とも言えない顔で振り返る。
 背中を向け、携帯を耳にあてたままのアントーニョの肩が震え始める。
「え?アントーニョ?」
 ゆっくりとアントーニョが振り返る。
 涙目のアントーニョを見て、へ?とフランシスが目を瞬かせる。
「ど、どうした、おい・・・」
「フランシスの・・・」
 ぐっと携帯をおろして握り込んだアントーニョは、下を向くと。
「あほー!!」
 と、思いきりフランシスを殴り飛ばした。

 なんでえええええ!?と吹っ飛ばされるフランシスを見ながら。
 ギルベルトは、ぼそっと呟く。
「ま、やつあたりだけどな」
 
 太陽は中天へと登ろうとしていた。  



 次号へ続く

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