偽物の月が壊れた新月の次の夜。
 うっすらと三日月にも届かない、切ったばかりの爪の滓みたいな月が浮かぶ夜。
 
 足音が完全に遠ざかったのを確認して。
 アルフレッドは、ゆっくりとベッドの中で起き上がる。
 そして。
 個室のドアを見つめ―。
 ふいに顔を歪め。
「Shit」
 と、苛立ちを吐き捨てた。

「自覚しました」
 は?と、ロマーノは牛乳パックに挿したストローをくわえながら、菊の方を向いた。
「な、なんだよ、いきなり・・・?」
 ストローから口を離す。菊はきっちりと正座して、ロマーノの方を向いていた。
 相変わらず屋上である。
 年中真夏の日本では直射日光はきついのだが、どうしても青い空と風を求めて屋上へ上がってきてしまう。とりあえず二人がいるのは給水塔が作る影の中ではあるが。
「ええ、ですから、自覚したんです。きっちりはっきり余すところなく自覚いたしました」
 おおう?とロマーノはわけがわからず菊の真剣なまなざしを戸惑いつつ受け止める。

「アルフレッドさんが好きです」

 一瞬、風が吹いた。
「・・・おう」
 沈黙の後、ようやっとロマーノはそれだけを応えた。
 そして。
「って、それ、オレに告ってどうすんだ!?」
 思わず突っ込む。
 すると、正座したままの菊は、ちっちっとロマーノの前で人差し指を振って見せる。
「これは告白じゃありません」
 じゃあ、なんなのだ、と口をつぐむと。
「報告です」
 と、ロマーノの同僚兼友人は言った。
「はあ・・・」
「先日はとんだ醜態を晒しましたので、男本田腹をくくりましたと、一応お伝えしておこうかと」
 ロマーノは再び沈黙する。
 そして。
「それは・・・よかったな」
 と、かろうじて答えた。
「ええ、ロマーノさんにもご迷惑をおかけしまして。私も気づいていなかったことを教えていただき、感謝しております」
 深々と頭をさげられてしまった。
 なんだ、この状況。
 友人が友人を好きで、それを指摘して自覚してもらって。
 で、感謝されている。
 ・・・まあ、ぎりぎり普通の範疇内な気もしないでもない。
「えっと・・・じゃあ、ガンガン押す感じなわけか?」
 一緒に住んでるわけだし・・・と思って、ロマーノはあらぬ方向にとんだ思考に思わず固まる。
「うーん、いえ、そういうんでもない感じでして」
 踏み込んではいけない領域に入りかけたロマーノは、菊の言葉に我に帰る。菊は、腕を組んでいた。
「そういうんでもないって・・・あ」
 そうか。
「もしかして、指令?」
「ええ、まあ、ありていにいえば」
 こちらが戸惑うくらいサラリと菊が答えた。ロマーノは再び言葉に詰まる。
 指令はそれはもう目の中に入れても痛くないというほど、正直うっとおしいくらいのねちっこい情熱でアルフレッドを愛している。
 そして、アルフレッドも・・・どうやら、指令が好きだ。
 そうして、菊はアルフレッドが好きで・・・尚且つ、指令を慕っている、のだ。
 結局、ロマーノが言えたのは一言だけだった。
「・・・大変だな」
「いえいえ、いいんですよ」
 予想に反し、菊はそう言って微笑んで見せた。
「幸せじゃないですか」
「え?」
 意味がわからず、ロマーノは思わず目を瞬く。
(幸せ?)
「幸せなことじゃないですか」
 菊はもう一度言葉を重ねて。
 そうして、本当に心底幸せそうに微笑んで見せる。
「好きな人がいるんですよ?」
 誰よりも大切な人が。
「それって、とても幸せなことじゃないですか?ねえ、ロマーノさん?」
 好きな・・・人が。
 思わず脳裏に浮かんだ面影に、ロマーノは息を飲む。
「えっと・・・」
 ―おまえが好きだよ。
 ―アントーニョ。
「ああ・・・そう、だな。そうだな・・・」
 幸せ・・・かも、しれない。
「おや、ロマーノさん。ロマーノさんも自覚なさいましたか」
 いつの間にか、菊がすぐ近くでロマーノの顔を覗き込んでいた。ひえ、と思わずのけぞる。
(自覚・・・)
 ロマーノは、ぼん、と赤くなる。
「え、な、なんつーか、それは、その・・・っ」
 ロマーノを見つめながら、菊が姿勢を戻し、そして微笑んだ。
「それはおめでたい。よかったですねえ、私たち好きな人がいて。幸せなことですねえ」
 しみじみとそう言うと、じゃあ、お弁当食べましょうか、とつつみを開いた。
 菊の様子を見て、ロマーノもおずおずと弁当を広げ始める。
 箸箱から箸を取り出しながら、菊がなにげなく口を開く。
「でも、それなら、ロマーノさんはガンガンいきませんとねえ」
 ぶ、と水筒の麦茶を飲もうと口に含んだロマーノは、思わず薄茶色の液体を吐き出す。
「な、なんで、オレだけそうなるんだよ!?だ、大体相手はあの超天然ボケだぞ!?」
「何をおっしゃる。私だって似たようなもんです」
 ぱか、とお弁当のふたを開ける。今日のお弁当は海苔弁らしい。海苔の香りが漂う。
 アルフレッドの顔が浮かんだ。
「似たような・・・もんか?」
(アントーニョよりはマシな気がするけど・・・)
 しかし、ガンガン押すことはない、とはいえ。
「こ、告白とか、しない、のか?」
 昨夜の海老フライをつまみあげながら、そう聞いてみると。
「しますよ」
 という答えがあまりにあっさりと帰ってきた。
「へ!?」
「私がしたら、ロマーノさんもします?しますよね?ええ、当然ですよね?」
「はあ!?」
 ロマーノがすっとんきょうな声をあげて、海老フライを取り落としそうになった時だった。
「きーく!ロマーノ!ごめん、遅れたんだぞ!!」
 日誌当番の為、雑用をこなしていたアルフレッドだった。ロマーノがぎこちない様子で振り返る。アルフレッドが不思議そうな顔をしながら、菊の隣に腰かけた。
「二人で何話してたんだい?なんか、ロマーノ、変な顔してるんだぞ」
「ば、ばかやろー。変な顔とかしてねえよ!な、何にも話してねえって!!どうでもいいことだよ!!」
 ロマーノは海老フライを口に突っ込む。菊はなんだか非常に楽しそうににこにこしている。
「ふーん。なんか変だな。なんだい?もしかして、オレに秘密の話かい?」
 ロマーノから菊に視線を移してそう聞く。菊はアルフレッドににこりと微笑みかけた。
「いいえ、秘密の話だなんて。大好きなアルフレッドさんを仲間はずれになんてしませんよ」
「そうか!そうだよな!オレも、菊とロマーノ大好きだぞ!!」 
「ね。しましたよ」
 菊がくるりとロマーノの方を向いてアルフレッドを指さす。
「軽い!死ぬほど軽いぞ、おい!?」
「んん?何がだい?」
 わけがわからず、目を瞬くアルフレッド。
「ああ、ロマーノさんがアントーニョさんに告白するって話です」
「ワオ!!そうなのかい!?応援するよ!!」
「いや、待て!!なんでそういう話になる!?」
「私もしたじゃないですか」
「あんなの、告白のうちに入んねえよ!!」
 目を輝かせるアルフレッド、泡食うロマーノ、しれっとする菊。
「あ、あのなあ!!あいつは、あのフランシスでさえ手こずるような奴なんだぞ!?」
「ほお?どのように?」
 ロマーノの言葉に、菊が興味を示す。
「え、えっと・・・なんか、付き合ってるってことをわからせるために、すごい苦労した・・・らしい」
「付き合ってることを?なんだい、それ、意味がわからないぞ」
 アルフレッドがごそごそと食事の準備を始める。
「なんつーか、それ、付き合ってるだろっていう状況だったんだけど、アントーニョがそう思ってなかったっつーか。まあ・・・フランシスがああいう奴だからってのもあんだろうけどよ」
 ごにょごにょとおばあちゃんちの縁側で聞いた話を要約する。はあ、と菊がうなずく。
「確かにフランシスさんの『愛してる』なんて、挨拶よりも軽そうですよねえ」
「アントーニョも遠回しじゃ伝わらなそうだしね」
 言いながら、アルフレッドが卵焼きを幸せそうにほうばる。
「まあ、でもさ。はっきり、『好きだ!付き合ってくれ!!』って言えばいいんじゃないのかい?さすがにアントーニョもそのくらい言えばわかるだろ?」
 こともなげにそう言って、アルフレッドはたこさんウィンナーを突き刺す。
「そうですね。アルフレッドさんの言う通りです。にぶちんさんには、はっきり言う。これ、基本です」
「あ、あのなあ、おまえら、軽く言いやがって。い、言えるか、そんな・・・」
 かあ、とまた顔がピンクになっていく。
「ロマーノさんって、赤面症ですねえ」
「たこさんなんだぞ」
 感心したように言う菊の後ろで、アルフレッドがたこさんウィンナーを掲げて見せる。
「あっちで一人で食う」
 立ち上がりかけたロマーノの手を、菊がすかさず掴む。
「まあまあ、ロマーノさん。確かに日常の中で言うのはなかなか難しいですよね。そういう雰囲気にもなりにくいでしょうし。ならばね、言いやすい状況から作ればいいんですよ」
「言いやすい状況?」
 ロマーノが怪訝な顔をする。ええ、と菊が笑みを浮かべた。
「ずばり、イベントです!人は普段と違う場所に行くとうきうきして、そういうムードになりやすくなるものです。しかも、そういう特別な場所では相手の魅力も二割増しです。花火の浴衣とか海辺の水着とかもう、最強アイテムです!」
「おい、本田?もしもーし?」
 あらぬ方向に鼻息を荒くする菊を見ながら、ロマーノは半眼になる。
「ですからね、そうですね、キャンプとかどうです?」
「キャンプ!!楽しそうなんだぞ!!」
 飛びついたのはアルフレッド。
「アントーニョさんはきっと喜んで乗ってくれますよ。まあ、問題があるとすれば・・・フランシスさんが確実についてくることですけどね」
 菊が頬に手をあてる。皆で行った方が楽しい、とアントーニョは即座にフランシスとギルベルトを誘うであろうことは間違いない。
「現実的に考えても、運転できる人数は多い方がいいですからね。まあ、フランシスさんを誘わないのも不自然ですし、そっちは私がなんとかしましょう」
 こともなげにそう言い切った菊に、あまりに急速な話の成り行きにぽかんとしていたロマーノが慌てて尋ねる。
「な、なんとかってなんだよ!?おまえ、何する気だよ!?」
「縛ってどっかに転がしとけばいいんじゃないかい?」
 天使の笑みで物騒な提案をするアルフレッドに、ロマーノは口をあんぐり開ける。
「アルフレッドさん、手荒なまねはいけませんよ?」
 にっこりとほほ笑む菊に、アルフレッドは不満げな声を上げる。
「え〜?でも、アーサーは、邪魔なものは力づくでも排除しろって言ってたぞ?」
「あのまゆげ、なんて教育してんだあああっ!」
 思わず青空に吼えたロマーノを見ながら、菊はご飯を口に運ぶ。
「ま、じゃ、とりあえずキャンプで決定ですね。いい感じに日が暮れてくる頃に二人きりにしてさしあげますから、しっかり告白してくださいね」
「おい待て!!なんでオレ抜きで話進んでんだよ!?」
「友達だからですよ」
 菊の返事に、へ、と思わず毒気を抜かれるロマーノ。うん、友達だからな、とアルフレッドも口をもぐもぐさせながら同調する。
「あ、う・・・」
「ふふふ、いやはや、しかし、萌えてきましたね。名付けて、ドキwラブキャンプ大作戦ということで!!」
「本田、なんか燃えるの漢字違くね!?」
 
 こうして、ドキwラブキャンプ大作戦は強引に決行されることになったのであった。

「人間は悪でも、ましてや善でもねえよ」
 豊かに生い茂った緑の木々が作り出すこもれび。
 白を基調としたアカデミーの回廊で。
 注ぐ日の光が金色の髪に落ちて煌めく。
 低い抑揚のない声であいつはそう言った。
「原罪を持った生き物じゃないの?人間は」
 だからこそ、キリストは人類の罪を背負って十字架にかかったのではないか。
「それは、人間の愚かさに対する罪だ。・・・悪じゃない」
 そう言って、碧色の目を細める。
 ギリシャの神殿をもしたのであろう白い回廊は、不必要に大きな円柱によって支えられている。
 円柱は床に規則的な影の模様を作り出す。
「性善説だ、性悪説だなんて議論できるほど、人間なんてそんなたいした生き物じゃねえっつってんだよ。目の前にぶらさがってんのが知恵の実だって、そう教えたのは蛇だぜ?原初の人間は、蛇より劣ってたんだ」
 エデンの園。
 楽園にいたのは、無垢なる人類。罪を持たぬ彼らは、もちろん悪でもなかったが、しかし善でもなかったということか。
「善か悪か、それを判断するような知恵すら人類は持ってなかった。善を知るのは全能なる神、そして悪を知るのは悪魔だ」
 アーサーは腕を組んで円柱にもたれかかる。

           


「人類なんて、白いキャンバスみたいなもんだ。白にも黒にも簡単に塗り替えられる」
 アーサーが小脇に抱えた何冊かの本。図書館にあったずいぶん古いものらしく、端がめくれていたり、黄ばんでいたりしていたのを今でもよく覚えてる。
「あえていうなら、人類は中立地帯ってとこだ。善と悪とが絶えずせめぎ合う戦場に設けられた中立地帯。どっちが占拠してもおかしくない」
「人の心は戦場か。なるほどね」
 顎に手をあてる。
「ただ、これは絶対の善、絶対の悪が存在するとして・・・の話だがな」
 アーサーが身体を起こす。
「善の概念、悪の概念、オレ達が意識できるのは人間が作り出したそれだけだ。人を殺しちゃいけない、ものを盗んじゃいけない、それは悪だってな。だが、何が悪で何が善なのか、時代や状況によって簡単に変化する」
 アーサーは皮肉っぽく口の端を持ち上げる。
「ホロコーストを行っていた人間たちの少なくとも何割かは、それを善と信じていたはずだ。当時は、その環境の中では、それをしないことこそが悪だった、そういうこともありうる。大体人を殺すことを悪とするなら、すべての戦争は悪になる。死刑ですら、悪になるだろう」
 肩をすくめて見せる。
「なんか、そういうの聞いたことあるな。えっと・・・」
「哲学の授業でやったはずだぜ?」
 やったっけ、と頭をかく。我ながら要領はいいのでテスト前は完璧に覚えているが、その後はほぼきれいさっぱり忘れる性質だ。
 ったく、とアーサーは呆れた顔をする。
「哲学のテキスト83ページ見てみろ。そう・・・         」
 最後の言葉に、鐘の音が重なる。
「うわ、やべ。おまえに付き合ってたら、授業遅れちまったじゃねえか」
「あーごめんごめん」
 くそ、と悪態をついて走り出すアーサーの背に、へらりと笑いかける。
「おまえに聞くのが一番いいと思ってさ」
 ポケットに手を突っ込んでさきほどアーサーがしていたように、円柱によりかかる。
 一瞬足を止めたアーサーは、ちょっと振り返る。そして、おまえオレを何だと思ってんだ、と言い捨てて。
 今度こそ振りかえらずに走って行った。

「人の心は、白いキャンバスね・・・」

 見上げると。
 ガラスの向こうで、空にそびえるように緑の葉を腕いっぱいに抱えた木々が揺れた。 

                                             *

「まゆげがどうかした?」
 ベンチに座ってぼんやりしていたアルフレッドに覆いかぶさるようにして、そう尋ねると。
「え!?」
 と、驚いてアルフレッドが顔を上げた。
「フランシス・・・」
 にこりと微笑んで、フランシスはアルフレッドの隣に腰を下ろした。
 ジオフロント内部、ネルフ本部の一画。
 休憩場所にしては中途半端で、なんとなくスペースが余っていたのでベンチでも置いてみました、という空間である。
「オレの顔見るなりアーサーの話に持ってくのやめてくれるかい?」
「やーだって、アーサーのこと考えてたでしょ?可愛いアルフレッド君にそんな顔させられんの、あいつだけだからね」
 もちろん図星だったらしく、アルフレッドはぐっと言葉を詰まらせる。
 アルフレッドは、目を泳がせた。
「なあ・・・フランシス。フランシスは、アントーニョが好きなんだろ?」
「うん、好きだよ」
 あっさりと答える。そして。
「で、アーサーはおまえが好きだよ」
 と、続ける。
 しかし、アルフレッドは拗ねたような顔をして見せた。
「好き・・・なんかじゃないよ」
「え?なにそれ?むしろそう思えるおまえにお兄さんびっくりなんだけど」
 誰がどっからどう見てもあの男は、この子を身も世もなく愛してる。こっちが恥ずかしくなるくらいに。それが当の本人に伝わっていないとは。
 アルフレッドはしかし、はあ、と珍しく物憂げに息をついた。
(あらら、なんか色気づいちゃって)
 写真でもとってアーサーに見せてやろうかな、と思った時だった。アルフレッドがぼそっと呟くように口を開く。
「あのさ。好きだとさ・・・ハグしたりとか・・・キスしたくなったりするだろ?」
 フランシスは目を瞬く。
「うん、するね。つーか、それ以上もしたくなるね。何?それ以上の仕方がわかんないの?教えてあげようか?手とり足とり」
「あのね」
 手をわきわきさせたフランシスに冷たい視線を投げるアルフレッド。
 そして、やっぱり何だか物憂げな顔に戻るアルフレッドを首をかしげて見つめ、フランシスはベンチの背もたれに腕を引っ掛け、なあ、と口を開いた。
「なあ、おまえ、アーサーとキスしたことある?」
「ん?よくしてたけど?」
 きょとんとした顔をこちらに向ける。フランシスは苦笑した。
「ああ、多分それじゃなくてね。・・・大人のキスさ」
「おと・・・なの?」
 アルフレッドは、落ちつかない顔になる。うん、とフランシスは甘い顔で微笑んで見せた。
「どう・・・違うわけ?」
 今更距離が近すぎることに気がついたように、アルフレッドはわずかに身体を引く。フランシスはわずかに眉を動かした。
「興味があるなら・・・教えてあげるよ?」
 逃げ道をふさぐように、片方の手でアルフレッドの側の手すりを掴む。アルフレッドがぎょっとした顔をした時だった。

 ザンッと何かが目の前を高速で横切った。

「はい?」
 はらっと、髪の毛数本がはら、と膝の上に落ちる。
 ぎぎぎと首を動かすと、ベンチのすぐ後ろの壁に見事に突き刺さっている・・・。
「園芸バサミ・・・」
 一瞬にして頭の中を覆い尽くした嫌な確信と共に振り向くのと。
 革靴の底がフランシスの顔に勢いよく押し付けられるのとは同時だった。
「ひでぶっ」
「害虫として駆除されるのと、諸悪の根源を剪定されるのと、どちらか好きな方を選ばせてやる。オレは慈悲深いからな?」
 どう聞いても邪悪にしか聴こえない声音で、革靴の主は最悪の二択を迫ってきた。
 靴底を押しのけ、フランシスは靴の跡の付いた顔をあたたた、となでる。
「いてーよ!殺す気か、このやろう!」
 しかし、もう既にアーサーは聞いてもいない。
「大丈夫か、アル!?来い、殺菌してやる」
「オレはバイ菌かなんかですか!?」
 アーサーはアルフレッドの手を引いて引っ張り上げるが、しかし、連れて行こうとしたアーサーの手をはっと我に返ったアルフレッドが振り払った。
「ち、ちょっと、待ってよ、アーサー。な、なんていうか、フランシスはオレの悩みを聞いてくれようとしただけっていうか・・・」
「悩み!?アル、おまえ、なんか悩んでんのか!?てか、なんで、こんな変態に相談すんだ。すんなら、オレにしろよ!?」
 青ざめたアーサーが、左手でアルフレッドの肩を掴む。
 そして、右手のひらをこめかみから頬のラインにそって確かめるようにゆっくりと動かした。
「うー」
 親指の腹でアルフレッドの頬をなでる。アルフレッドは、所在なげに両手を持ち上げ、ぎゅっと目を閉じて唸った。
 そして、ちらと目を開けてフランシスの方を見ると。
 フランシスがにやりと笑った。
 途端に。
 アルフレッドは、かあっと赤くなる。
 そして、どん、と強くアーサーの胸を突き飛ばした。
「アル!?」
「あ、アーサーには関係ないんだぞ!ほっといてくれよ!!」
 真っ赤な顔でそう叫ぶように言うと、アルフレッドはくるっと踵を返して、だっと走り出した。
「あ、アル!!」
 茫然とアルフレッドの背中を見送るアーサー。
 ベンチに座ったまま足を組み、背もたれにもたれたフランシスは、横目でアーサーの背中を見ながら口を開いた。
「アーサーちゃん、大丈夫〜?」
 言い終わるか終らないか、という刹那。
 くるっと振りかえりざまにアーサーの拳が思いきりフランシスの横っつらに叩きこまれた。
「ぐはっ」
 一回転して床に倒れたフランシスは、ばっと大昔のスポ根漫画のヒロインのような格好で頬に手を当て、アーサーを見上げる。
「何すんだよ!!」
「・・・アルに何吹き込みやがった?言っとくが、害虫駆除は終わってねえぞ。オレの花園に手え出しやがって。おまえは菜園で土にまみれてろ」
 ぐっと壁に突き刺さった園芸バサミの持ち手を掴み、力を込めて引き抜く。フランシスはさあっと青ざめた。
「お、おい、落ちつけ!!してない!何もしてないから!!指一本触れてないし!!」 
 慌てて釈明するが、アーサーの身体は既にどす黒い負のオーラに包みこまれている。
「嘘つけ。隙あらば手え出そうと狙ってやがるくせに。将来の禍根はここで摘み取っておくべきだな」
 しゃきん、とアーサーの手の中で園芸バサミが光る。
 怖い。
 半端なく、怖い。
「いやいやいやいや!オレ、命は惜しいからね!!確かにあの子は可愛いけど、保護者怖いからね!・・・と、もう保護者じゃないか」
 フランシスの言葉に。
 アーサーの表情が変わる。
 フランシスは反撃の糸口をつかみ、そろそろと立ち上がった。
「あのさ・・・アーサー、おまえ、気づいた?」
 アーサーが怪訝な顔をする。
 フランシスはにやりと笑ってみせる。
「・・・あの子が、もう愛されるだけの天使じゃないってことさ」
 眉をひそめる。
「・・・どういう意味だ?」
「もうそろそろ、キスの仕方を変えてあげるべきだってこと」
「!」
 アーサーがわずかに目を見開く。
「・・・アルが、なんか言ったのか?」
「いいや。あの子は何にも」
 フランシスはスーツのズボンのポケットに両手を突っ込み、アーサーの顔を覗き込みながら囁く。
「気づいてないの?自分がどんな風にあの子を愛してるのか」
 月のない夜。
 真っ白なシーツに包まれて・・・眠るアルフレッド。
 アーサーは目を閉じた。
「関係ないな」
 え、とフランシスが目を瞬く。
 アーサーは目を開き、どこか遠くを見つめる。
「アルはオレのすべてだ。・・・ただ、それだけだ」
 無垢なる者へ注ぐ慈愛であろうと、それとも他の感情であろうと。
 フランシスは目を細める。
「・・・狂おしいな」
 すると、アーサーはゆっくりと視線をフランシスへと向ける。
 そして、静かに口の端を上げて笑みを浮かべて見せた。
 その笑みは、いつもの皮肉っぽい笑みでありながら、ひどく幸福そうで。
 なのに。
(なんでだろうな)
 去っていく背中。



 ぞっとした。



(う〜ん)
 なんだろう、あれは、とさきほどのアーサーの不可思議な笑みを思い浮かべながら、ネルフの廊下を歩いていると。
「ええか、今日は新しい訓練すんで。着替えてトレーニングルームCに集合や」
(お)
 耳に入ってきた声に、足を止める。
 視線の先にアントーニョの背中。
「ふむ」
 フランシスは歩き出した。

「ん〜てか、アルおらんやん?アルどしたん?って、ふお」
 菊とロマーノを前に本日のトレーニングについて説明していたアントーニョが、アルフレッドの不在に気づいてきょろきょろしかけた時。
 のしっと背中に乗っかった重みに、思わずつんのめる。
 首をひねると、フランシスが張り付いていた。
 目の前にいたロマーノと菊がぎょっとして後ろに引く。
「何しとん?」
「や〜愛っていいよねえって思ってさあ」
 抱きついたままフランシスが目を閉じて言う。アントーニョは、ぽりぽりと頬をかく。
「あ〜ええね。ええけど、オレ、仕事中なんやけど」
 フランシスが目を開けると、あうう、となっているお子様二人が目に入る。
「・・・・」
 なんとなくいたずら心が生じて。
 ぎゅっと腕に力を込めてみる。
 すると、ロマーノのくるんが、びよん、と逆立った。
(あらら、面白い)
「ぐええっ首しまる!首!!」
 アントーニョが悲鳴を上げた時。
「おいこら、おまえら何いちゃついてんだ。仕事しろ、仕事」
 ぽこん、ぽこん、とリズミカルにアントーニョとフランシスの頭にファイルが振り下ろされる。ギルベルトである。
「え〜オレ、仕事しててんで〜」
「オレもオレも〜」
「や、おまえは確実にしてねえだろ。つか、おまえ、普段もしてねえだろ」
 ようやくアントーニョから離れたフランシスが、ギルベルトの言葉に抗議の声を上げる。
「仕事してるってのよ。フランス人は、かりかり仕事してるとこなんか人に見せねえの。スマートじゃないでしょ」
「スマートとか言う前に、まず姿勢がなってねえだろ。遊び人にしか見えねえよ」
「そういえば・・・なんで、フランシスさんだけいつもスーツなんです?ネルフの職員なんですよねえ?」
 フランシスの唐突な行動に言葉を失っていた菊が、ロマーノより早く復活して常日頃感じていた疑問を口にした。
 ああ、これ?と、フランシスは洒脱なスーツを開いてみせる。
 そして、ぱちんとウィンクしながら、指でっぽうのような形にした指をアントーニョとギルベルトにそれぞれ向ける。
「そのだっせえ制服なんとかしたら、着てやるよ☆」
「だっせえ制服で悪かったな」
「ひえっ」
 フランシスの背後に現れたアーサーに悲鳴を上げたのは、ロマーノだった。
「・・・ネルフの制服は、すべてアーサーさんがデザインしたんですよ・・・」
 アーサーの背後でマシューが控えめに言った台詞に、ええ!?と、全員が振り返る。
「マジかよ!?」
「し、知らんかったわ!」
「そうだったんですか!?」
「え、ちょ、ますます着る気なくなったんだけど、それ」
「予算足んなかったのか?」
 全員が好き勝手なことをわやわや言い始め。
 下を向いたアーサーの黒いオーラが膨れ上がり、マシューがあわわわと口に手を持って行った時だった。
「あ、アル・・・」
 マシューの呟きに。
 ぱちん、と黒いオーラが弾けた。
「ごめん、遅れたんだぞ!!」
 アルフレッドの声が廊下に響く。
「あ、遅いで〜アル。ほんじゃ、遊びはここまでや。着替えてトレーニングルームCな。ギル、行くで」
 アルフレッドの姿を確認したアントーニョが、ぽんぽんと手を叩いて、場をまとめに入る。
 集団の中にアーサーの姿を認めたアルフレッドは一瞬足を止めかけるが。
 すぐに、了解だぞ!!と、笑顔をつくる。
 そして、菊とロマーノの手を引っ張って、行こう、と促した。
 アーサーはアルフレッドが自分の方を見ないようにしているのはわかっていたものの、何も言わずにマシューを促し、司令室へと向かう。
「おい、ちょっと待て、ちゃんと歩くから手を離せって・・・」
 後ろから手を引っ張られて歩きはじめた為、後ろ歩きになってしまっているロマーノが声を上げた。
 そして、ふと後ろを見ると。
 まだその場に立ってるフランシスと目があった。
 すると。
 にこり、と笑ってフランシスが手を振る。
「・・・・!!」
 アルフレッドが手を離したため、身体が自由になったロマーノはくるりと振り返り、そして菊とアルフレッドを大股に追い抜いて歩いて行く。
「ちょ、待ってくれよ、ロマーノ」
 どかどかといきなり早歩きで歩き始めたロマーノを、慌てて菊とアルフレッドが追う。
 ロマーノはぴたりと止まると、ばっと二人を振り返った。
「おい、本田!アル!あれ、やんぞ!」
 はい?とアルと菊が目をパチクリする。
「怒気w羅武キャンプ大作戦決行だ!!」
 ロマーノの言葉に、アルフレッドと菊がゆっくりと笑みを浮かべ。
 そして、菊が呟くように言った。

「・・・ロマーノさん、漢字が違います」

 こうして、作戦のGOサインは出されたのであった。

 

 次号へ続く

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