終わりの光景。
 繰り返し、繰り返し。
 夜の闇の中、絡みつく悪夢。
 あの日。
 引き上げられたアダムが。
 オレにだけ見せた悪夢。
 
 赤い空。
 赤い海。
 かつて、青く優しく輝かしかったもののすべてが。
 真っ赤に染まっていく。
 愛したものも、愛してくれたものも。
 一瞬にして消え去る。
 人類の終焉。
 
 オレは、絶望の前に立ち尽くす。

 時計の針が回っていく。

 1・・・2・・・3・・・。

 13。

 時計の針があり得ない数字を指した時。
 鐘が鳴る。
 終わりを告げる鐘が鳴る。

 いつも、そこで終わる夢。

 ―が。

(・・・・?)

 わずかな光を感じて、視線を落とす。
 どす黒い赤に染まった海。
 その一部がゆらゆらと輝きだす。
 まるで夜光虫のように淡い光が、波と共に岩に砕ける。

(光・・・?)

 アーサー・カークランドは、その不可思議な光を、じっと見下ろしていた。

 唯一人、世界の終わりで。

「さーせんしたー!」
「てめえは、やる気のねえバイトかあああっ!!」
 アーサーの怒鳴り声を聞きながら、アル・菊・ロマーノはロッカールームへと向かう。
「そういえば、あの大量のひよこはネルフ内の養鶏場に引き取られたそうですよ」
「ふーん、卵産むのかい?」
「いえ、縁日のひよこさんたちですかねえ。ほとんどオスでしょうねえ」
「ひえっ、じゃあ、あれか!しばらくしたら、ネルフの食堂でこんがり焼き上がって出てくんのかよ!」
「まあ、その暁には心していただきましょう。ロマーノさんの告白の為、しっかりギルベルトさん足止めの任も果たしてくれた勇者たちですからね・・・」
 菊がそう言った時だった。
 廊下を曲がり、資料を肩に担いだギルベルトが現れる。
「おや、噂をすれば」
「よお、ガキども。アーサーとアントーニョは司令室か?」
「ああ、いつも通り楽しそうに喧嘩してたんだぞ」
「や、別に楽しそうじゃなかったと思うけど」
 そうか、と言いながら、ギルベルトが歩き出す。
 そして、すれ違いざまに何気ない調子でこう言った。

「使徒が出たからよ。おまえらも、出撃準備な」

 はーい、とよいこのお返事をした三人は、一瞬遅れて言葉の意味を咀嚼し、え、と振り返る。ギルベルトの白衣は、既に司令室の中に消えていた。

「エヴァ、出撃準備整いました!」
「使徒、上空からの映像届きました!モニターに映します!」
「住民の避難、60%完了!」
 にわかに慌ただしくなるネルフ内。
 アーサーはいつも通り司令席において、口元で手を組みコンソールを見つめた。
 それは、螺旋状の形をしていた。
 真ん中にある、煌めく赤い球体が核。
 熱反応を探るまでもない。
 そして、その周囲を黒く細長いものが螺旋を描いて取り巻いている。下から上へ巻きあげるように。古風な床屋の青と白と赤の看板のように、くるくるとゆっくりと回転し続ける。
 剥き出しに見える核は、実際はその螺旋の回転と共に、強固なA.T.フィールドに守られているのだ。
「今のところ、浮かんでるだけですね。あれ、どうやって攻撃してくるんでしょう」
 背後でマシューが呟くように言う。
 振り返らず、モニターを見つめたまま、アーサーが口を開いた。
「さあな。だが、あの姿、なんか思い出さねえか?」
 はい?とマシューが問う。
 赤い核を中心とし、螺旋を描く物体。
 アーサーは目を細める。

「まるで・・・DNAのようじゃねえか?」

 DNA。
 すべての生き物の遺伝情報をコードするもの。

 マシューが再び画面を見ると、螺旋状の一部が解け、核が一瞬赤く光る。
「・・・・!」
 見開いたマシューの瞳に、黒くしなる鞭のような触手が映る。
 それは、ぶんと唸りを上げて街を削いだ。

 しゅるしゅる、とほどけたのと同じくらい唐突なスピードで触手は核の周囲へと戻り、何事もなかったかのように螺旋構造へと戻る。
 アントーニョは、声を張り上げた。
「被害状況、報告せえっ」
「南A3よりA5地区までほぼ壊滅。この地区の避難はほぼ完了済みの為、住民被害は最少と思われます。現在、詳細確認中!」
「住民避難、80%完了!」
 アントーニョは報告を聞きながら、ぐっとモニターを睨みつける。
 フル回転で動きはじめる頭脳。鼓動。
「どうする?一発ぶち込んでみるか?」
 白い白衣のポケットに両手をつっこんだギルベルトが隣に並ぶ。標的はよく見えてるから、はずすことはないだろ、と続けた。
 しかし、アントーニョは首を振った。
「あかんな。分析の結果、あの螺旋が絶えず生み出しとるA.T.フィールドはかなり強力や。通常の武器やとはじきかえされるわ」
「んじゃ、どーするよ?」
 ギルベルトの言葉に、アントーニョは腕組みする。
「これも分析の結果やけどな、さっき攻撃の為に螺旋がくずれたやろ?あのとき、一緒に核を覆ってる被膜みたいなA.T.フィールドもくずれるんや。そのときやったら、攻撃も通じると思う」
「じゃあ、あいつが攻撃してくるのを待てばいいわけだな」
 しかし、アントーニョは、いや、とまた首を振った。
「攻撃スピードが速すぎる。あれだと、相当の至近距離で撃つしかない。それやと、撃った本人がどうなるかわからんわ」
 顎を引いてモニターを睨むようにして言うアントーニョの横顔を見ながら、ギルベルトが口を開く。
「じゃあ、あれか。攻撃を長引かせる必要があるってこったな」
 そういうことやな、と答えながら、戦闘配置を考える。
 つまりは、囮が必要なのだ。
 囮が触手を引き受けている間に、核を狙撃する。狙撃手はいつも通り、ロマーノでいいとして・・・。
(問題は囮やな・・・)
 アントーニョは唇を噛む。
 危険な役目だ。
 あれが、物理攻撃のみを行うタイプの使徒であったなら、それでいい。
 だが、もしも。
 侵食系であった場合・・・。
(なるべく、接触せん形で使徒の攻撃を長引かせる手はないんかな)
 そう考えた時、ふいに頭上から声が響いた。
「菊に使徒への接触を試みさせろ」
 はっとして、アントーニョは司令席を見上げる。
 アーサー・カークランドが立っていた。
「接触て・・・危険や!あいつがどんなタイプの使徒か、わかっとらんのやで。不用意に接触なんてさせるべきやない!」
 怒気を露わにして、アントーニョが怒鳴る。
 しかし、アーサーは涼しい顔でアントーニョを見下ろした。
「問題ない。菊を出せ。初号機は、ライフルを構えて待機。弐号機は零号機が失敗した時の為の控えだ」
 とうとうと指示を出すアーサーに、アントーニョは目を見張る。そして、ち、ちょっと待ちぃ!と、司令席への階段を駆け上がる。
「ま、待てや、アーサー!作戦部長はオレやで!勝手に決めんなや!!」
 頭の中では、アーサーの指示は合理的であることはわかってる。
 だが。
 だが、それではあまりにも。
「その作戦じゃ、あんまりにも菊に負担かかりすぎや!せめて、囮役はアルと二人にすべきやろ」
 アントーニョの言葉に、アーサーは薄く笑った。
「二方向へ攻撃を分散させれば、二本の螺旋で出来てる奴の動きを予測しづらくなる。そうなれば、初号機パイロットの実力じゃ、確実に核にあてられるとは限らねえだろうが?それに、菊とアル、二人一遍に失ったらどうする気だ?」
 アントーニョは、ぐっと言葉に詰まる。
 が、身体の中から黒い疑問符が沸いてくるのを、押さえることができなかった。
「せやけど・・・おまえ、それじゃ・・・」
 ―菊を、捨て駒にするようじゃないか。
 アントーニョの心の声は、正確にアーサーに伝わっている。アーサーの表情でわかった。
 アーサー。
「・・・アーサー!」
 アントーニョが訴えるようにその名を呼び、肩を掴もうと手を伸ばす。しかし、次の瞬間、その手は無情にはじかれる。同時に、冷ややかな声が二人の間にあった感情の糸を一瞬で断ち切った。

「気安く呼ぶな、アントーニョ・フェルナンデス・カリエド三佐」

 アントーニョの碧の目が震えた。はじかれた手が所在なげに宙をさまよう。
 戸惑いながらも、アントーニョが尚も口を開こうとした時だった。
『私は、かまいませんよ』
 アントーニョがモニターを見ると、再び攻撃を開始している使徒の画像の左端で、菊が無表情で淡々と言葉を紡いでいた。
『私の代わりなど―いくらでもいますし』
 菊の言葉に、アントーニョはカッと熱くなる。
「阿呆が!!何言うてんねん!!おまえの代わりなんぞ、おるわけないやろ!?」
 吼えるようなアントーニョの声に、一瞬息を止めたような顔をして。
 それから、菊は微笑と共に息を吐いた。
『―ありがとうございます。でも、大丈夫です。アーサーさん、私が行きます』
 アントーニョは思わずアーサーを見る。アーサーは目を細め、頼んだ、と低い声で言った。

 

              

 

 

(アントーニョさんは、いい人ですね)
 使徒を捉えられる位置につき、菊は心の中で呟いた。
 空は快晴。
 絶好の使徒退治日和、とアルフレッドが言っていた。
 ―阿呆が!!何言うてんねん!!おまえの代わりなんぞ、おるわけないやろ!?
(いい人すぎて・・・そこが、あの人の弱点だ)
 ネルフの作戦部長としては。
 案外、致命的な欠点ではないだろうか。
(私など―捨て去ってもかまいませんのに)
 ナイフを構え、A.T.フィールドを展開する。
「だって、本当に代わりはいくらでもいるんですからね・・・」
 そう呟いた時だった。
 音声受信の信号。
(アルフレッドさん?)
 オフにしたままになっていた回線を開く。
「どうしました?」
 そういえば、と思う。
 あの場面でこの人が何も言わなかったのは、珍しい、と。
 そう気づいた。
『ああ、菊かい?』
「ええ」
 当然だ。零号機へ通信してきているのだから。
 電話のような言いように少し可笑しくなる。
『あのさ、菊。オレも、アントーニョと同意見なんだぞ』
 え、と菊はモニターの端に映るアルフレッドを見つめる。
 アルフレッドは思いのほか静かな瞳で菊を見つめていた。
『キミの代わりなんていない』
 ―代わりなんて。
 アルフレッドの青い瞳に、力強い光が浮かぶ。
『君が危なくなったら、オレが助ける』
 心の琴線が―爪弾かれる。
 菊は、やっと笑みを浮かべた。
「それは、アーサーさんの指示とは違います」
『作戦部長はOKだって言ってくれると思うよ。じゃあ』
 言うだけ言って、アルフレッドは接続を切った。
 菊は、少しの間目を閉じた。
 こんな気持ちで戦いに出る日が来るなんて。
 ―ひどく、穏やかだ。
 これはもしかして、幸福感と言ってもいいのではないだろうか。
『菊、ロマーノ、アル、準備はええか?』
 非情さの足りない作戦部長の声がする。
 菊は、はい、と答え、目を開いた。

 剥き出しのコンクリートの壁。
 そっけない洗面台の頭を突っ込み、収まりの悪い金色の髪の上から、いきおいよく水をかける。
 赤い悪夢を追い払うように。
 顔を上げる。
 壁にとりつけた鏡に、自分の顔が映る。
 ひどい顔色だ。
 緑色の目ばかりが、ぎらぎらと光る。
 マシューが作ってくれるので、食事はとっているが。
 悪いとは思うが、味がしない。紙を食むような食事のせいか、少し痩せた気がする。
 アルフレッドの気配を家の中に感じなくなってから。
 身体の中の空白が大きくなっていく気がする。
 だが、これでよかったのかもしれないと最近は思う。
 もし、アルフレッドがそばにいれば。
 あのぬくもりを感じていたら。
 ―きっと、決心が鈍る。
 ぬるま湯のような偽りの幸福の中に、浸ってしまうかもしれない。
 アーサー。
 なんのためらいもなく、伸ばされる手。
 闇の中で、こわごわとその手に自分の手を絡めた。
 遠い記憶。
 罪と唯一つの救済の始まり。
 鏡の中のうつろな顔の男が責める。
 アーサーは口を開いた。
「ああ・・・わかってる」
 ひた、と濡れた手を鏡の表面につく。
 時間が迫ってる。
 やるべきことをやらねばならない。
 怯えている時間などない。
 アーサーは鏡に額をつけた。
 脳裏に、一人の少年の姿が浮かぶ。
 アルフレッドではない。
 黒髪と静かな瞳を持つ少年。

 本田菊。

「計画を・・・加速させる」
 アーサーは呟く。
 そして、目を閉じた。

「すべては・・・アルフレッドの為に」

 おまえだけは、守って見せる。

 たとえ、何を犠牲にしようとも。

(しま・・・っ!)
 菊は目を見開いた。
 近寄り、接触を試みた使徒の第一撃は、A.T.フィールドではじいた。
 しかし、びよんと3倍以上の長さに伸びた触手は、一度大きく青空に跳ね上がり、それからゴムが伸縮するように思いもよらない早さで零号機に迫った。
 後方からの攻撃。
「くっ」
 すんでのところで、攻撃をさばく。
『菊!』
『菊、下がり!』
 アルフレッドとアントーニョの声。
 しかし。
 ちらりと、初号機を見る。
 触手の思わぬ動きに、核への狙いを定めきれていない。
(―まだだ!)
 ぐいん、と再び触手が空で回転する。
 零号機はその場にふんばると、A.T.フィールドを全開に張り直す。
「受け止めてあげますよ」
 ―さあ!
 その声に呼応したかのように、触手がまっすぐにA.T.フィールドにつきささる。
(これで足止めを―)
 そう思った時だった。
「え・・・?」
 菊は、信じられない気持で前面に展開したA.T.フィールドを凝視する。
 触手が当たっているところ。
 そこから、波紋のような光が波打ち。
(まさか・・・)
 菊は目を見開く。
 波は次第に感覚をつめて行く。
 そして。
「A.T.フィールドが・・・溶かされている?」
 菊が、呟いた時。
 A.T.フィールドに穴が開いた。

 ―阿呆が!!何言うてんねん!!おまえの代わりなんぞ、おるわけないやろ!?
 アントーニョの言葉を聞いたとき、ふといくつかの情景が思い浮かんだ。
 セカンドインパクト後の世界はひどく荒れていて。
 ―ある日、寮母が変わった。
 ・・・は?
 もう覚えていない彼女の名前を言うと。
 新しい寮母は、困ったように、寂しそうに、気まずそうに、目をそらして。
 いなくなってしまったの、と答えた。
 なにかひどいことがあったんだ、と。
 幼いオレは思った。
 ある日。
 駅長が変わった。
 ほとんど電車に乗ることなどなかったけれど。
 近所の野良犬が、駅長になついていて。
 おそらく元は飼い犬だっただろうその妙に人懐こい犬に会いたくて、オレはよく駅に行っていた。
 その犬は、いつも小さな駅の駅長しかいない駅長室で、足もとにうずくまっていた。
 だが、やっぱりひどいことがあって。
 駅長はいなくなった。
 そうして、あの犬はどうしてるだろうと見に行ったら。
 新しい駅長は犬が好きではなかったらしく、雨の中を追い出されていた。
 とぼとぼと歩く犬を思わず追いかける。
 だが、施設暮らしのロマーノにもちろん何も出来ることはなくて。
 どうしようかとただその後を追いかけていると。
 やがて、一人のおばさんが犬を迎え入れた。
 そのおばさんは、クリーニングやさんだった。
 よかった、と。
 その時、確かにそう思ったのだけれど。
 それから、クリーニングやの前を通るたび。
 駅にいた時と同じように、細く目を閉じてあくびをするその犬を見ていると。
 なんだか、もやもやとした気持ちになった。
 そうして、オレはもうあの犬に会いに行かなくなった。
 あの犬は。
 まだ、覚えているだろうか。
 可愛がってくれた、ふしくれだった手を。
 駅長の声を。
 それでも―あいつは、生きていくために主を変えるしかなかった。
 悪いことではない。
 だが、オレは。
 なんだかとても、哀しかった。

 アントーニョ。
 本当は、かけがえのない、換えの利かないものなんてない。
 オレ達パイロットだって、きっといくらでも換えがきくんだろう。
 マルドゥック機関が、いつ壊れるかわからないオレ達の換えを用意してないわけがない。
 駅長がいなくなっても。
 次の日には、別の人間が切符を切ってる。
 郵便屋がいなくなっても。
 次の日には、やっぱり手紙は配達されてきた。
 そうやって。
 壊れた電球はいつの間にか取り換えられて、世界は明るいまま。
 そういうものなんだって。
 子供のオレだって知ってる。

 知ってるけど。

 ―おまえの代わりなんて。

 ためらいもなく、そう口にできること。

 きっとあの犬も。

 電車の音に駅長を思い出して、泣いた夜もあったかもしれない。

 そう、思えた。

『菊!!』

 叫んだのは、アントーニョ。
 破れないはずのA.T.フィールドを溶かし、触手は零号機の胸に突き刺さっていた。

「ああああああああっ」
 びきびきびきっと動脈が浮き上がってでもいるように、プラグスーツの表面が下から波打って行く。
(使徒が・・・)
 侵食してくる。
「ああああ、があっ」
 何かが入ってくる気持ちの悪い感覚。手足がしびれる。身体のコントロールを奪われる。
「やめ・・・っ!!」
 ざわざわ。
 ざわざわざわ。
 ふと、身体の中にざわめきを感じる。
(何・・・?)
 ざわざわ。
 ざわり。
 心の表面を―何かが、なでていく。
 探るように。
 ね・・・え。
 ざわざわ。
 ざわ。
 無数の―子供が笑いさざめくような、声。

 ―キミは、ダレ?

 君は誰?

 私は・・・誰?

「あかん!!エントリープラグ強制排出や!」
「できません!制御不能!!」
「っくそ!強制排出、成功したことないやんか!どうなっとんねん!」
「オレに当たんな。使徒が零号機の機能を押さえてる。仕方ねえよ」
 ギルベルトの冷静な声にムカつきつつも、やや冷静になる。
「アル!」
『わかってる。むりやり、こじ開ける!』
 弐号機は既に動きはじめていた。

 司令席の前に立ち、モニターを見下ろしながら。
 アーサー・カークランドの瞳に、怪しい光が瞬きはじめていた。

 ―君は誰?
 いつの間にか。
 子供に取り囲まれていた。
 顔のない子供たち。
 くすくす笑いながら。
 菊の周囲を回っている。
 ―ねえ、君は誰さ?
 私は。
 菊は、口を開く。
 ―本田菊。
 キク?
 ふふふ、と子供たちが嗤う。
 ―変な名前。
 ―それは花の名前でしょう。
 ―そうだ、花の名前だよ。
 ―おかしいね。
 ―おかしいね。
 ―おかしくはありませんよ。あの人が、つけてくれた名前です。
 ―あの人って誰?
 あの人って。
(誰でしたっけ)
 菊、と呼ぶ低い声。
 ―アーサー・・・。
 呟く。
 ―アーサー・カークランド、です。
 ―それがあの人?
 ―そうです。それが、あの人。
 私を作った人。
 私に命を与えてくれた人。
 私に生きる意味をくれた人。
 ―大切なの?
 大切?
 ―ええ。
 大切だ。
 とても。
 ―でも、その人は君が大事じゃない。
 ふいに、子供の一人が背後でそう言った。
 はっとして、菊は振り向く。
 しかし、たくさんいた子供はいつのまにか姿を消していた。
 ―そうでしょう?あの人が大事なものは、他にある。他に―いる。
 今度は前から声がして、菊は前を向く。
 すると。
 子供は。
 その子供に、見覚えがあった。
 ―知ってますよ。
 あの人の大事なものは。
 ずっと―いつだって、一つしかない。
 狂おしいほどに。
(アルフレッドを守ってくれ、菊)
 ええ、貴方がそう望むなら。
 ―君はそれでいいの?
 菊は静かに答える。
 ―かまいません。私は、アーサーさんと同じくらい・・・アルフレッドさんが大事です。
 アルフレッドの明るい笑い声が弾ける。
 仲間だと言ってくれた。
 私の為に泣いてくれた。
 私は。
 ―アルフレッドさんのことが、とても好きです。
 ふうん、と子供は首をかしげる。
 ―でも、そのアルフレッドはアーサーのことが大切なんじゃないか。結局、君の大事な人は二人とも、お互いしか見てない。
 子供の顔が、段々とはっきりしてくる。
 ―貴方は、いなくてもいいんだ。
 二人にとっては、お互いがいればいい。
 菊がいても―いなくても。
 二人の世界に、変わりはない。
 第一、私の代わりなど、いくらでもいるのだから。

『君の代わりなんていない』

 菊!!

 その声と共に、卵の殻を割るように世界が崩れ落ちた。

              


 次号へ続く

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