『使徒は新潟方面より、時速約300キロで上空500メートル付近を第3新東京市に接近中。後1時間ほどで都市上空へ到着予定!』
 トーリスの声を聞きながら、アルフレッドは器用に空中でバランスをとりながら、後ろに続く初号機を振り返った。
「大丈夫かい?ロマーノ」
『だいじょぶ・・・、じゃ、ねえよ!空飛ぶなんて、聞いてねえよ!!』
「はは、最近完成したらしいからね。実戦に間に合ってよかったじゃないか」
『訓練する暇もねえってことじゃねえかよ、うわわっ』
 悲鳴のような声を上げながら、初号機ががくんとバランスをくずす。
 アルフレッドはくるりと旋回すると初号機の腕を掴んだ。
「で、大丈夫かい?」
『だから、大丈夫じゃねえって言ってるだろ、アホか!』
 言いながらも、ロマーノは翼を平行に保ち、なんとか態勢を立て直す。アルフレッドは手を離した。
『アル、ロマーノ、大丈夫か?新型飛行器具、こないにすぐに使うことになるとは思わんかったけど』
 アントーニョの言葉に、アルフレッドが答える。
「ああ、大丈夫だよ。ロマーノも問題ないって」
『あるっつってんだろぉ!こんなんで、戦えるか!!』 
 ロマーノの抗議を聞き流しつつ、弐号機は細い剣のような銀板を組み合わせた翼を扇のように閉じ、背中中央の噴射の力だけを利用し、後ろを振り返った。
「ぐだぐだ言ってる暇はないんだぞ、ロマーノ」
 アルフレッドの青い瞳に光が宿る。14歳の幼い身体に不釣り合いなほどの、戦士のまなざし。
「―来た」
 ぐえ、というカエルを踏みつぶしたようなロマーノの呻きを聞きながら、弐号機は模型か化石のような翼をばっと広げた。
 目の前に広がるのは、こんなときでなければため息が出るほどの絶景。
 足もとには緑の樹海。
 そして。
 日本一高く、また日本一優美な山。

 富士山。

 真っ青な空を背景に聳え立つその姿。
 常夏となった今の日本では、かつてのように白い王冠をかぶった姿は見られないが。
 それでも、第3新東京市の、使徒を迎撃する最後の砦のシンボルとして、生存をかけた戦いに疲れた人々の心の支えとして、その山はそこにある。
 ほれぼれするほどの美しい稜線の脇に。
 ぽつん、と現れる黒い点。

 使徒。

 目を凝らせば、その形状が見て取れる。
 それは、一言で言えば、エイであった。
 おそろしく、巨大なエイ。
 黒々としたその肢体の目にあたる部分に、三重の円が二つ描かれている。
 その渦巻状の模様は、初の出撃時の嫌な記憶を想起させた。
(だけど、もう、オレはあの時のオレじゃない)
 アルフレッドはぐっと使徒を睨みつけた。
 エイは、まるで海の中を泳ぐようにこちらに向かってくる。 
『ええな、作戦は話した通りや。あの使徒は地上には降りてけえへん。動きも早いから、地上からとらえるんは無理や。まずは、動きを止めること。そんで、あいつの身体の上から核を突く。核は』
 アントーニョの声が空を切る。
『―渦巻の目玉と目玉の真ん中や。使徒の背中に降りて核を突くんは、アルの役目。ロマーノは、アルが降りる間、A.T.フィールドであいつの動きを止める。前に、はりせんぼんみたいな使徒を菊が止めたんと同じ要領やで。わかるな?』 
「い、言ってることはわかるけど・・・。あ、あんときは、地面に足がついてたじゃねえか!オレ、飛ぶだけで精いっぱいだし、使徒の目の前でシールドはるなんて・・・!」
『ロマーノ』
『くっそ、わかってるよ!やるよ!やればいいんだろ!』
 ロマーノ、とただ名を呼んだアントーニョの声音には、複雑な色がある。
 もしも―。
 アルフレッドは目を細める。
 ここに菊がいたなら。
 アントーニョは、ロマーノにその役は振りはしないだろう。
 A.T.フィールドの取り扱いと制御に最も長けているのは、菊だ。
 目の前に迫る使徒に怯えることもなく、冷静にタイミングを測ってフィールドを展開する。
 菊ならば、完璧にこなすだろう。
 ―だが。
 菊は、いない。
 だからアントーニョは、ロマーノ、と。
 その名を呼ぶしかない。
 ロマーノが、やるしかない。
 菊。
(本当に馬鹿だ、君は・・・!)
 アルフレッドは、心の中で悪態をついた。

 病室で、目が覚めた。
 これで何度めだろう、と一番最初にそう思う。
 初めて使徒と戦った時。
 使徒のトゲに胸を貫かれた時。
 そして、今。
 ふいに、ぞわっと蘇る感覚。
 何かが、身体の中に入ってきた。
 気持ちが悪くて。
 叫びだした。
 頭が真っ白に染まっていく刹那。
 声が、流れ込んできた。
 いや、声じゃない。
 あれは―感情、だ。
 ―なら・・・。
 悲痛なほどの切実さで。
 私が。
(菊)
 ―・・・たほうがいい。
「菊!」
 アルフレッドは、起き上がった。

「無理・・・だ。無理だって!」 
 細く開いたドアの隙間から、光とロマーノの声が漏れていた。
「オレ一人で使徒と戦えってのかよ!」
「・・・ロマーノ」
「アルは目を覚まさねえし、本田はエヴァん中でどろどろに溶けちまってる!やだよ!オレは絶対やだ!一人じゃ、絶対…!」
「一人じゃないさ」
 スライド式の扉を開ける。
「オレがいる」
 あっけにとられた顔で、ロマーノがこちらを見た。
 その横で、アントーニョが驚いた顔をすぐに緊張した表情に変える。
「アル、起き上がって平気なんか?身体は?」
 診察用の白い作務衣のような恰好のまま、アルフレッドは肩をすくめて見せる。
「すこぶる快調。いつでも、出れるよ。あれから一晩、ずっと寝てたみたいだしね。・・・それより」
 アルフレッドは目を細めた。
「教えてくれないかな。菊が溶けたって・・・どういうことだい?」
 言い訳を許さないアルフレッドの強いまなざしの先で、ロマーノとアントーニョが顔をこわばらせた。

(ああ・・・君は、本当に馬鹿だ)
 ―くらいなら・・・。
 流れ込んできた感情。
 ―私が・・・。
(ほんっとに・・・)
 
 ―消えた方がいい。

「馬鹿だよ、君は!!」

 ごう、と風を切り、弐号機は飛びあがる。
 そして、ロマーノに話しかける。
「いいかい、ロマーノ!オレがあいつを君の前まで誘導する!君は動かなくていい!ただ、オレが声をかけるタイミングでA.T.フィールドを展開するんだ!それなら、出来るだろ?」
 ロマーノのためらいの気配。
 それから。
『・・・ああ』
 と唾を飲み込むのと同時に、囁くような返事が返ってきた。
「よし」
 アルフレッドが言った時、使徒が―こちらに、気付いた。

「ギルベルトさん、パルス発動準備、完了しました」
「おう」
 MAGIの心臓部で、白衣の袖を肘の上までまくりあげたギルベルトがMAGIに接続したノートPCのキーボードを叩きながら答える。
「くそ、煙草がほしいぜ」
「だめですよ、煙草の灰は彼女に毒です」
「わあってるよ」
 ギルベルトは、がしがしと銀色の頭をかいた。
「しかし、本当にうまくいくんですかね?」
 無数のコードが這いまわる小さな洞窟の中に、エドアルドは片膝だけ乗り上げる。あっちこっちにテープで貼り付けられたメモをとってしまわぬよう、気をつけながら上司に話しかけた。
「本田君が溶けてエヴァの中にいるってだけでも、もう、僕には理解不能ですけどね」
「んなこと言ったら、使徒もエヴァも、ついでに人類だって理解不能だろ。MAGIの出した答えだ、信じるっきゃねえよ」
 エドアルドは、一晩徹夜したにも関わらず疲労の色も見せない上司の赤い瞳を見上げる。
「そうですね・・・。今まで蓄積した本田君のA.T.フィールドの解析パルスをエヴァ内部に流し込む」
 A.T.フィールド。
 使徒にもエヴァにも存在する、バリアーのようなもの。
 それがなんなのか、もちろん色々な人間が研究を重ねてきたが、いまだにわからない。
 A.T.フィールドの発生のさせ方も、聞けばパイロットが展開させようと思うだけらしい。
 エヴァそのものが、パイロットの意志に従って動くのだから当たり前といえば当たり前なのだが。
「なんで、A.T.フィールドなんでしょう」
「おれぁ、なんとなく、わかんない気がしねーでもないけどな」
 言いながら、ギルベルトは一つの数値をメモに書き留め、それをメモの群れの中に継ぎ足した。
 メモはまるで木々の葉のようで。
 ギルベルトは、深い森の中にいる隠者のようだ、とエドアルドは思う。
 そういう柄ではないけれど。
「へえ?」
 エドアルドが首をひねると、電子の森の隠者は口を開いた。
「あれは、多分境界なんだ」
「境界?」
 エドアルドはギルベルトの言葉を繰り返す。
「そうだ」
 言いながら、ギルベルトは手を持ち上げる。
「オレと、世界をわける境界」
 世界と・・・自分とを、わける?
「よく・・・意味がわかりませんが」
「ああ、別にわかる必要もねえよ。単にそう思っただけだからな。ただな、菊は・・・多分、その境界をなくしちまったんだろ」
 己と世界の境界を。
 ギルベルトは、小さな画面に視線を戻す。
「だから、思い出させてやるんだよ。自分のカタチって奴をな」
 じゃあ。
 ―行くぜ。
 そう言って、ギルベルトはENTERキーを無造作に押し下げた。

         

  

 波の音を聞いていた。
 ゆらゆらと。
 水面がゆれている。
 ぬるい水と。
 どこから来ているのかよくわからないぼんやりとした光。
 ひどく、だるかったが、同時に心地よくもある。
 なんだかとても落ちついた。
 あるべき場所にいる、というような。
 母の胎内とは、こんな感じなのではないだろうか。
 けれど。
 静謐な、さざ波一つない心の中。
 何かがひっかかっている。
 何か。
 心をざわつかせるものがあった気がする。
 それは時に痛くて辛くて。
 でも、時に。
 泣きたくなるほど、幸せにしてくれるもの。
(なんでしたっけ・・・?)
 ―菊。
 低い声が波音に混じる。
 はい、と答える。
 ―・・・を、守ってくれ。
(守る・・・?)
 腕を持ち上げる。
 それは透き通って。
 まるで、柔らかいゼリーフィッシュ。
(私は・・・)
 何を、守るんでしたっけ?

 その時、ぽつんと遠く光が灯った。

(速い!!)
 アルフレッドは、反射的に垂直に空へと駆け上がる。
 弐号機を認めた使徒は、ゆらりと方角を変え、それから予想以上のスピードで箱根の空を突っ切ってきたのだ。
(まずは、ロマーノから引き剥がす!)
 上空を旋回させ、初号機の目の前まで使徒を連れて行く。
「さあ、ついてくるんだぞ、おばけエイ!!」
 ばっと翼を広げ、弐号機は赤い鳥となって美しい弧を描き旋回を始める。
 使徒は、闘牛の牛よろしくその赤い残影を追いかけはじめた。
「よし、ロマーノ、行くぞ!」
『わっ!ま、待て!準備が・・・っ!』
「準備なんか、いらないだろ!」
 怒鳴りながら、軌道を地面と平行にし、ちらりと後ろをうかがう。
 渦巻模様が目に飛び込んでくる。
「・・・いい子なんだぞ」
 前に視線を戻すと、初号機が所在なげに空中に佇んでいる。
(後もう少し・・・1・・・2・・・3・・・)
 ロマーノの壁が出現する寸前に、上に抜ける必要がある。
 タイミングを誤れば。
(4・・・5・・・)
 その時、初号機が動揺したように動き出した。
「ろま・・・っ」
『うわあああああっ』
 その瞬間。
 目の前に、巨大な光の壁が出現した。
(早すぎる・・・!)
 慌てて、上空へと飛び上がろうとするが、わずかに間に合わない。
 そのまま、弐号機は初号機の作り出したA.T.フィールドに頭から突っ込んだ。
「うわああああっ」
『ロマーノ!目ぇ開け!フィールド解除や!』
 アントーニョの焦った声と共に、ふっとびりびりとした痛みが消え去る。
 翳った日の光に、はっとして空を見上げると。
 初号機と弐号機の上をふわりと飛び上がる巨大エイの姿。
「・・・しまっ」
 アルフレッドが叫ぼうとした時。
 ぐわん、とエイの長い尾が動いた。
『え?』
 ロマーノのどこか間の抜けた声。
 次の瞬間。
 初号機と弐号機の機体は横ざまに、使徒の尾によって空中に弾き飛ばされた。
「うわあああああっ」
『あああっ』
 アル!ロマーノ!!アントーニョの絶叫を聞きながら。
 ちくしょう、とアルは空を見上げる。
 巨大なエイのシルエットが太陽の光に縁どられ、輝く。
(第3東京には行かせな・・・っ)
 そう思った時、背中に強烈な痛みが走る。ばきばきばきっと悲鳴のような音を立てながら、弐号機と初号機は背中から樹海へと突っ込んだ。

「アル!ロマーノ!!」
 ばきばき、と枝をへし折りながら、地面へ転がり落ちる二機。
「二人とも、身体的な異常はありません!意識もあります!」
 ライヴィスがモニターを見ながら、声を上げる。
「エヴァの機能にも、特に異常ありません」
 普段なら、エドアルドが座っている席に、別の技術班の人間が座っている。
 エドアルドは、ギルベルトが助手に連れて行っているためだ。
(ロマーノ・・・!)
 アントーニョは唇をかみしめる。
 ほんの少し、恐怖が自制心を上回った。
 その瞬間が、手に取るようにわかった。
 まずい、と思った瞬間。
 ぷつ、と張り詰めた何かが切れる音。
 臨界点を超えた恐怖は。
 ロマーノの防御壁を出現させてしまった。
 後、少し。
 我慢しなくてはならなかったのに。
 迫りくる使徒の恐怖から。
(―せやけど)
 それが出来ないのが、罪か。
 たった14歳の子供に。
 怯えるな、と。
 そんなことが。
 樹海の底で、よろりと身を起こす初号機と弐号機とを見ながら。
 アントーニョは、ぎり、と拳を握りしめる。
(オレが間違うてたんか・・・?)
 ロマーノをエヴァに乗せたこと。
 戦いに向くような性格ではない。
 むしろ、正反対。
 けれど・・・。
『アル・・・悪い、オレ・・・』
 ロマーノの声に、はっとしてアントーニョが画面に視線を戻す。
 アルフレッドが答える。
『もう一度行くんだぞ、ロマーノ』
『あ・・・でも、オレ・・・』
『ロマーノ!このままじゃ、市街に使徒が・・・!』
『ダメなんだ!』
 ふいにロマーノが叫ぶ。弐号機が動きを止めた。
 ダメなんだよ・・・とロマーノがゆっくりと震える声で言う。
『羽根が・・・壊れちまったんだ』
 え、とアルフレッドが声を漏らす。
 よく見ると。
 初号機の身体の下に、くだけちった翼の破片が輝きを放っていた。

 煙草の灰を灰皿に落とす。
 モニターを見上げながら、フランシスは煙を吐いた。
 奇妙な感覚だった。
 目の前の出来の悪いロボットアニメもどきの光景が。
 人類の運命を握る戦い。
 もっと手に汗握ってもよさそうなものだが。
 なぜか、その光景は心からは遠いのだ。
 あの化け物の中で、あの子供たちが戦ってるのがイメージに結び付かない。
(まあ、戦争ってのはそんなものか)
 目の前で銃を突きつけられない限り。
 それがたとえドア一枚隔てた場所で行われているものでも。
 画面を通す戦闘は、いつだって遠い出来事だ。
 そういえば。
 ふと、思う。
 なぜ、この施設には三人のパイロットしかいないのだろうかと。
 三体のエヴァンゲリオン。
 三人のパイロット。
 当たり前のようだが、よくよく考えれば不自然だ。
 三人が健在な時はいい。
 だが、今やっているのは命を賭けた戦いだ。
 パイロットが死ぬケースも、もちろんある。
 その場合、補充のパイロットはすぐに用意されねばならないだろう。
 死ななくても、戦闘不能になることは今まででも何度もあった。
 補充のパイロットをそろえておくなら、普段からエヴァで訓練を行っておかねばならない。
 そうでなくては、いざという時代わりは務まらない。
 そんな当然のことが。
(どうして、この場所では行われていないんだ・・・?)
 フランシスが眉をひそめた時だった。

「エヴァの格納庫って、どこだろ〜」
「ああ、それなら、そこの通路、左行って次右」
「ヴェ〜ありがとう〜」
「あ、でも、今ギルベルトが・・・」
 背後から聴こえた声に思わず答え、それから振りかえると。
 もう、そこに声の主はいなかった。
「あれ・・・今の・・・子供の声だったよな・・・?」
 煙草の吸殻を灰皿に押し付けると、フランシスは通路からひょこりと顔を出す。
 すると、通路を右に曲がる少年の後ろ姿が見えた。
「え?」
 その後頭部の横にくっついてる、特徴的なくるん。
「ロマーノ?」
 馬鹿な、とモニターを振り返る。
 画面の中で、初号機がようやく立ち上がろうとしていた。

 光を見つめる。
 遠く、呼ぶように瞬く光を。
(私は・・・)
 あれを、知っている。
 そちらのほうに、動き出そうとした時だった。

「どこへ、行くんです?」

 動きを止めた。
 ゆっくりと、振り返る。

 黒い、まっすぐの短い髪。
 アジア人特有の黄色い肌。
 表情の読み取りにくい黒の瞳。
 
 これは。

 私だ。

「貴方は、選んだんじゃないですか。消えてなくなることを」

 往生際が悪い。
 浮かんだ薄い笑みがそう言っている。

「あなたの大事なものを守るために」

 影は、少しずつ近づいてくる。

「ねえ、貴方一人が抜けたところで、貴方一人が消えたところで、どうってことはないんです。補充要員なら、いくらでもいる。わかってるでしょう?」

 指がゆっくりと伸ばされて。
 頬に触れようとして・・・しかし、それはすっと通り抜ける。
 触れられない。

「次のパイロットは、貴方のように余計なことは考えない。余計な欲望が彼を傷つけもしない。ただ、あの人が望むように、機械のように使徒を倒し、彼を守るでしょう」

 ねえ、だから。

「貴方はもう・・・必要ないでしょう?」
  
 帰る必要などないでしょう?

 背後で。

 光が瞬いた。

「エヴァに異常反応!!」
 エドアルドが焦った声を上げる。
 無数のコードに繋がれたエヴァンゲリオン零号機は、まるで重病の患者のごとく。
 その零号機の表面に、突如蚯蚓腫れのようなものが走り。
 ぶるぶると小刻みに震えだしたのだ。
「どうします!?パルス注入止めますか!?」
 エドアルドがギルベルトを振り返る。
 しかし、爪を噛んだギルベルトは、いや、と答える。
「続けろ」
「でも・・・」
「放出の出力を上げるんだ」
「は?」
「やれっての」
 は、はい、とエドアルドはパルスの注入出力を上昇させる。
 すると、がくがくがくがく、とますます零号機の震えが大きくなった。
 思わず、エドアルドが息を飲んだ時。
 零号機が、吼えた。

 ギルベルトとエドアルドがエヴァを見つめるモニター室のガラスのすぐ上に。
 少年が立っていた。
 立っていた、というのは正確ではない。
 そこは足場などなく、ただの空中であったのだから。
 とどのつまり、少年は浮いていた。
 そして、苦しむように痙攣する零号機を見下ろす。
 
 ゆっくりと目を閉じると。
 浮かび上がる、遠い映像。
 少年とよく似たもう一人の少年が、エヴァの中で悪態をつきながら、ある頂を目指している。
 零号機用に開発されていた翼が到着するまで、もう一つの作戦を実行するのだ。
 初号機が飛べないなら、使徒を近づけるしかない。
 すぐ近くに大きなテーブル状になった崖がある。
 そこで使徒を待ち構える。
 うまくすれば、足場がある分フィールドは安定しやすい。
 だが、そこまで使徒を誘導するのは、さきほどより格段に難しい。
 しかし空中では、再び弐号機と使徒との追いかけっこが始まっていた。

 少年は目を開ける。
 柔らかいまなざしで、零号機を見下ろした。

「あの光が、なんだかわかりますか?」
 初めて、口を開く。
 喉が震える感覚はなかったが、拡散して行こうとする意識をかき集めるようにして声を出す。
 もう一人の自分が、怪訝な顔をした。
「光?」
 その反応に、くすりと笑った。
「おや・・・忘れたんですか?大事なことですのに」
 光を振り仰いだ本田菊は、まぶしげに目を細める。
 光は、強さを増していた。
「あれは・・・ランタンの光じゃないですか」
 世界の終わりの、その先。
 赤い海の波打ち際で。
 交わした約束。
 ぐにゃり、ともう一人の菊がゆがむ。
 ―道しるべが、ほしいのかい?
 弾むような、明るい声で。
 彼は、いつも話しかけるのだ。
「・・・そうかもしれません」
 呟く。
 あの時と同じように。
 ―ならさ、オレを目印にするといいよ。
 え?と聞き返すと。
 ―菊が迷ったら、オレがエヴァに乗ってランタンをふってあげるからさ。そしたら、灯台みたいに遠くからでもよく見えるだろ?
 そう言って、アルフレッドは首をかしげて微笑んだ―。
 振り仰げば。
 闇に瞬く光。
 それが、目印だ。
 ゆらゆら、ぐずぐずと。
 もう一人の自分が崩れる気配がしている。
「もう一つ、言っておきましょう」
 崩れ去ろうとする、迷いの残骸に。
 きっぱりと、菊は言い放つ。
「アーサーさんは、この私に言ったんですよ。アルフレッドさんを守れとね」
 他の誰でもない。
 ここにいる、この自分に。
 菊が振り向くと、そこには最後の揺らめきだけが残されていた。
 そうして、菊はその揺らめきが消えるのを見届けると。
 大きく水をかいて、道しるべとなる光へと泳ぎだした。

 ごう、と水が渦巻く。
 次第にあたりは暗く、流れが激しくなっていく。
 必死に巻き込まれないように手足をかく。
 その感覚も、段々と生々しいものになっていく。
 冷たさも、水の重みも、息苦しささえも。
 身体の感覚が戻っていくにつれ、困難も増して行く。
(私は・・・)
 顔を上げて。
 ただ、その光を見つめる。
 その時、ざあああ、と水が一斉に押し寄せる。
(く・・・っ)
 抵抗しようとするが、まるで急流に浮かぶ笹舟のように頼りなく。
(私は・・・っ)
 もう一度。
 貴方のところへ―。
「がぼっ」
 ふいに、肺というものが活動を始めたようだった。
 しかし、それは大量の水を吸い込むという行動も伴う。
「うっ・・・」
 苦しい。
 がぼがぼと水泡が浮かび上がり。
 光が、その泡の群れに屈折してゆらゆらと揺れる。
 心臓を掴まれるよう感覚。
 気がつけば、片方の手は光を求めて伸ばされていた。
(だめだ)
 私は。
 戻らなければ―。
 目の前がかすみかけた時だった。
 誰かが。
 光を求めて伸ばした手を、やんわりと掴んだ。
(え?)
 驚いて目を見開くと。
 その視線の先で。

 ロマーノが、微笑んでいた。

 

 次号へ続く

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