ドガガガガガガ。
 エイのひれが、岩棚の側面を大きくえぐり取っていく。
 ロマーノは、被害を避けて岩棚の中ほどへと避難していた。
『くっ!ちょっと針路がずれてたんだぞ!ロマーノ、も一回行く!』
『り、了解・・・』
 再び空へと舞い上がったエイを見上げ、かろうじてそれだけ答える。
 太陽の光を遮る巨体。
 さきほど、岩肌を削り取りながら横を通り過ぎていった巨体。
 この間テレビで見た古い映像。
 くじらの泳ぐ姿。
 まだ青かった海の中を悠々と泳ぐ、その圧倒的な存在感。
 ロマーノはそれを思い出していた。
(だからさ)
『ロマーノ、行くぞ!』
 ロマーノは、足を踏ん張る。
(無理なんだってば―・・・)
 迫ってくる渦巻の文様。
 頭のどこかが麻痺していく。
『今だ!』
 ロマーノは、押さえていた恐怖感を放出する。
 虹色の光が六角形の盾となってロマーノの前に展開する。
 ぎゃふううううう
 電子音にも似た使徒の叫び。
 A.T.フィールドにはめこまれ、身動きがとれなくなる。
『よし!』
 急旋回でA.T.フィールドの真上に飛び上がっていた弐号機が、背中に担いでいた槍を取り出す。そして、銀色の翼を細く畳むと、くるっと態勢を変え、空気を蹴るようにして使徒の上へと降下する。
「あ・・・う・・・っ」
 A.T.フィールドから伝わる、使徒の暴れる振動。それは強く、ロマーノのくびきを今にも引きちぎろうとしている。
「アル!はや・・・っ」    
 く、と言おうとしたとき、弐号機の槍が使徒の眉間に到達し。
 その瞬間。 
『うわああああああっ』
(え?)
 六角形の虹色の膜の向こう、グリーンとイエローの中間の色で。
 エイの身体から、電撃が放出されていた。
「アル!」
 弐号機の手が、握っていた槍を離す。
 槍は、使徒の眉間に刺さったまま。
 弐号機は、ゆっくりとスローモーションで、エイの身体をバウンドし。
 崖を滑り落ちる。
「アルうううっ!」
 声は、返らない。
 ロマーノの注意が弐号機にそれたのを見計らい、使徒が大きく身体を動かす。
 パリン、とA.T.フィールドが砕け散った。
 ぐおおおおおおっ
 使徒が吼える。
「う・・・わ」
 虹色の光が拡散する中。
 初号機は、とっさに両腕で顔をかばう。
 衝撃を感じ、初号機は岩棚から吹っ飛ばされた。

「アル!ロマーノ!!」
 アントーニョが、司令部で声を上げる。
 画面では、落ちて行く二機のエヴァンゲリオン。
(電撃属性の使徒やったんか・・・!)
「くそっ」
 ガン、とアントーニョの拳がコンソールを叩いた時だった。
「苦戦かよ」
 え、と顔を上げると、そこには煙草をくゆらせたギルベルトが立っていた。
「ギル・・・」
 アントーニョは、はっと顔色を変える。そして、ギルベルトに駆け寄った。
「菊は!?菊は、どないなってん!?」
 ん、とギルベルトは煙草の吸い口を噛んだ。
「目覚めたぜ」
 目覚めた。
 ギルベルトの言葉の意味を咀嚼するほんの一瞬の沈黙の後、アントーニョの顔がおもむろに、ぱあっと明るく輝く。
 そして、がばっとギルベルトに抱きついた。
「おまえは、ほんま天才やな、ギルベルト!」 
 おっと、とギルベルトはたばこを離す。
「へへ・・・まあな」
(まあ・・・ちっと、危なかったような気もするが)
 エヴァに異変をきたし、一か八か出力を上げた。
 今にも、拘束具を引きちぎりそうになったエヴァの動きに、実験を中止するかとぎりぎりの判断を迫られた時。
 ふっと。
 エヴァの動きが静まったのだ。
 そうして、モニターを見ると。
 エントリープラグ内には、人間の生体反応があらわれていた。
「で?菊は、今どうしてん?」
 アントーニョが、少し身体を離して尋ねる。
 ん、とギルベルトは友人の顔を見て答えた。
「ああ、出撃するってよ」
 へ?と、アントーニョの目が点になり。
 ついで、はあああああ!?という絶叫が司令部に響き渡った。

『ロマーノ、ロマーノ!』
 アントーニョの声で目が覚めた。
 もう朝か、と考えて、身体の痛みに一瞬にしてそれを否定する。
 ―戦闘の最中だ。
 ロマーノが目を転じると、横にヘリから下ろされた銀色の畳んだ扇のようなものが置かれている。
「・・・これ」
『おお、ロマーノ、ようやく目ぇ覚めたんやな!身体は大丈夫か?それはな、零号機用の翼や』
 アントーニョの言葉に、恐怖がむくっと蘇る。
「ま、まだ、やんのかよ!!無理だったじゃねえか!!」
 悲鳴に近い声で、ロマーノは抗議する。
 銀色の盾の向こうの稲妻。
 ゆっくりと落ちて行く弐号機。
「・・・そうだ、アルは!?」
 ロマーノは空を見上げる。
 初号機がなぎ倒した枝の間から、青い空が見えた。
『アルは、上や。時間稼ぎしとる』
(時間稼ぎ・・・?)
「時間稼ぎって、何の時間を稼ぐんだよ?」
 アントーニョへ疑問をぶつける。
『・・・アルの刺した槍は、まだ使徒の眉間に突き刺さったままや。けど、浅すぎて核まで到達しとらん。押し込むには、あいつの上に乗らなならんけど、あの電撃のせいでそれも難しい。・・・せやから絶縁性のゴムのスーツを着て、上に下ろす』
「お、下すって・・・」
 誰をだよ、と言いかけると、アントーニョが一瞬言葉を止める。
 そして、息を吐き出すようにして言った。
『零号機―菊や』
「菊・・・って、本田、起きたのか!?」
 思わず叫ぶ。ああ、と答えたアントーニョの声音が、一瞬緩む。
『身体に異常もなさそうやし、本人の強い希望で出ることになったんや。こっちで特製スーツはすでに身につけてヘリで移動中や。先に初号機の為に今ロマーノの手元にある翼を送ってもうたからな。菊が来たら、それ、渡したってくれや』
(本田が・・・!)
 喜びの後に、ふと複雑な思いが心の中に浮かび上がる。
 すぐ横に置かれた新品の翼。
 この戦いにおけるロマーノの役割は、おそらくこれを本田に渡した時点でほぼ終わる。
 弐号機が囮役と動きを止める役、そして絶縁体を身につけた零号機が止めを刺す役を担うならば。
 翼の折れた初号機に、果たす役割は―ない。
 心の中に浮かんだ想いは、いつの間にか黒い染みに変わる。
『ロマーノ?』
 ―オレ、あんたに必要なのか?
 青い空と。
 青々とした田んぼのあぜ道。
 どろだらけになった靴下。
 靴を持って追いかけてくる・・・。
 ―俺だけやない。皆に必要や。人類皆にな!
 残酷な王子様。
「あ・・・ああ。わかった。本田にこいつを届ければいいんだな?」
 ロマーノの声に含まれた暗いものに気づかずに。
 そうや、とアントーニョはうなずいた。

 とぷん、と水音が聞こえて。
 冷たい空気が、頬に当たった。
「本田」
 鼓膜を震わせ、音が認識される。
 これは、声。
 私を呼ぶ、声。
 この声の持ち主は―。
「ギルベルト、さん」
 ゆっくり開けた瞳の先で、銀色の髪と赤い目を持つ男が笑みを浮かべて見せた。
「よう。おまえがねぼすけだから、皆心配してたぞ」
 ギルベルトの言いように、菊はこわばった顔の筋肉をほぐすようにゆっくりと笑みを浮かべた。
「・・・すいません」
 菊は、エントリープラグの中で身体を起こした。
 身体には、何もまとっていない。
 この中に入った時に身に着けていたはずのプラグスーツも。
 菊は、ギルベルトを見た。
「あの、ギルベルトさん。アルフレッドさんは・・・」
 形を得た菊の欲望。それは、アルフレッドを襲った。それを止めようとした自傷。間に合ったのだろうか。
 ああ、となんでもないような口調でギルベルトは答えた。
「戦ってるぜ、使徒と」
 菊は、目を見開いた。
 ―アルフレッドを・・・。
 菊は、がっとギルベルトの白衣の襟を掴んだ。そして、真剣な顔で言う。
「出ます。プラグスーツを用意してください」
 は、とギルベルトは目を瞬く。
「や、おまえ、いくらなんでもそりゃ」
「私なら、なんともありません!」
 有無を言わせぬ口調で、菊はギルベルトに詰め寄る。
「私は、戦うために帰ってきたんです」 
 菊の顔を見つめ、それからギルベルトは首をすくめて見せた。

(いた)
 菊は、目を細めた。
 身体を覆う絶縁体のゴムのスーツ。そして、ロマーノから渡された銀色のつばさ。
 零号機は、エイのような使徒とその前を燕のように飛びながら翻弄する弐号機とを視線の先に捉える。
 そして、すっと息を吸うと。
 弐号機のパイロットに向けて、回線を開く。
「アルフレッドさん」
『―菊』
 アルフレッドの声に、一瞬喉に何かが詰まったように感じるが、強いてその感情を押し殺す。
 今は、戦いが優先だ。
「アントーニョさんから、お聞きですね?私があの槍を押し入れます。使徒の動きを止めてください」
『わかってる。・・・お帰りなんだぞ、菊!』
 おかえり。
 その言葉に応える間もなく。
 アクロバット並みの空中旋回をこなした弐号機は、使徒の前にA.T.フィールドを展開する。
 虹色の美しい六角形の壁。
 使徒がその壁にぶつかって、激しくたわんだ。
(今だ!)
 零号機は翼を閉じ、重力にさらに背中翼中央のジェット噴射を利用し、勢いをつけてエイの背中へと突っ込む。
「くっ」
 だん、とついたエイの背中は、思いのほかぐんにゃりとしてバランスを崩しかける。
 が、二、三歩先に突き刺さった槍を求め、一歩踏み出した。
 その時。
 ビリビリビリビリッ
 グリーンの電光が柱のように立ち上る。
 衝撃に耐えるよう腹に力を入れるが、少し、ぴりっとした程度でほとんど衝撃はない。
(ネルフの技術班は、本当に優秀ですね!)
 心の中で賛辞を送りながら、菊は槍をその手に掴んだ。
 そうして、ぐっと全体重をかけてその槍を押し込んだ。
 があああああああああっ
 その断末魔の抵抗は、予想を超えた激しさだった。
「うわっ」
『く、抑えられなっ・・・』
 平べったい身体を縮めたり伸ばしたりして、激しくよじる。
 その動きにとうとう、しがみついていられなくなり、零号機がエイの背中を尾の方に向かって滑り落ちる。
「うっ」
 滑り落ちた先に、高く上げられた尻尾。
 それが。
 まるでライオンが蠅を追うようにぴしゃりと零号機をはたいた。
『菊!』
 ふ、と投げ出される浮遊感。
 逆さまになる世界。
(翼を・・・!)
 が。
 ボタンを押しても、片翼が開かない。
「く・・・っ」
(付け根がゆがんだか!)
 片方の翼だけではバランスがとれず、零号機は錐揉みしながら落ちて行く。
『菊!』
 声がして。
 菊が空を見上げると。
 弐号機が追いかけてきていた。
(使徒が)
 使徒は暴れ狂いながら―富士山の方へと向かっていく。
 核は、破壊しきれていない。
 少しひびを入れられた程度だろう。
(逃がさない―)
 弐号機の手が。
 零号機に届くかという刹那。
 もどかしげに宙をかいて。
 樹海の緑が迫る。
(ああ、そうだ)
 唐突に。
 菊は、思い出す。
 そう、それは、「思い出す」が一番近い。
 ずっと前から知っていたことを―。
(翼なら、あるじゃありませんか)
 ずっと前から。
 この身体に。
 そう思った途端。
 背中の飛行器具が、バキッと音を立てて外れた。

「え?」
 アルフレッドは、目を見開いた。
 手を差し伸べて。
 落ちて行く零号機を捕まえようとしていた。
 その時。
 バキッと片翼だけの翼が外れて。
 その後から。
「なん・・・だって・・・?」
 翼が。
 ばさっと広がった。
 それは、鳥の翼ではなかった。
 一番近いのは、蝙蝠だろう。
 骨の間に膜のような翼。
 その翼には、うっすら血管のような筋が見える。
 零号機の背中に生えたそれは、ばさりと一度力強く羽ばたき。
 逆さまになった姿勢から、見事に空に浮かび上がった。
 零号機が、弐号機の横を階段でも上がるように飛び上がり、すれ違う。 

 そこにいてください。

 そう、声が聴こえた気がして。
 ただ、その声はアルフレッドの心をざわつかせた。
 菊。
 アルフレッドは振り返る。
 青空を振り仰ぐ。
 オレは。
「菊―!!」
 少年の叫びが、蒼穹に木霊する。

「翼・・・?」
 アントーニョは、唇が震えるのを自覚する。
 ギルベルトを振り返り、その赤い瞳にも驚きが浮かんでいるのを確かめる。 
「ギル・・・」
「あんな機能、オレは知らねえよ」
 それはそうだろう。知っていたら、飛行用の器具など開発すまい。
(・・・なんで、菊は・・・)  
 いや、知っていたはずがない。
 追い詰められ、エヴァ自体があれを出したということなのだろうか。
 零号機の翼も壊れてしまった以上、ありがたい事態と言える。
 だが、どうしてか。
(胸がざわつく・・・)
 どうしてだろう。

 ああ、そうか。

 心のどこかが、回答を見つけ出す。
 あの翼、どこかで見たことがあると思ったのだ。
 それは、聖書の中。
 最後の時を預言する書。
 黙示録。
 そこに出てくる悪魔の翼。

 それが、ちょうどあんな風だった。

 零号機の翼はばさりと力強く風を切り、暴れまわるエイの背中へととりついた。
 吸盤でもあるかのようにしっかりと背中にしがみついた零号機は、トカゲのような動きでエイの頭の方へくると。
 槍を掴むと、暴れるエイの背中で立ち上がる。
「アントーニョさん!このままだと、使徒が富士山の中腹に突っ込みます!」
 トーリスがはっとした顔で叫ぶ。
 ぱっとモニターに使徒の予想経路が示される。
 アントーニョは、声を張り上げた。
「あかん!!菊、一旦引くんや!このままやと、おまえも使徒と一緒に富士山に突っ込むで!!」
 しかし。
 少し経って、帰ってきた菊の返事は。
『もう・・・少しなんです。あと・・・少しでトドメを』
「あほう!死んでまうぞ!」
 画面の中では、次第に富士の高嶺が近づいてくる。
(時間がない!)
「菊!」
 しかし、答えはなく。
 画面の中で、零号機はずぶっとエイの頭を貫いた。

 富士山は。
 ロマーノの部屋から、よく見えた。
 朝起きると、真っ先に窓を開けて。
 その姿を見るのが、日課だった。
 あんまりにも完璧なその姿。
 最初の日、絵葉書なんかで見ていたその山が、本当にあるんだなとなんだか不思議な気持ちになった。
 そうして、富士山を見ながら着替えていると。
 アントーニョが、ご飯できたで、と声をかけてくるのだ。

 そんな日常の風景が。

 崩れる日が来るなんて、思わないだろう?

 零号機を乗せた巨大エイは、まるでミサイルのように放物線を描き、富士山の中腹に勢いよく突っ込んだ。

「あ・・・」

 思わず、意味のない声が漏れる。
 まるで、スローモーションのように。
 岩が砕けるのを見。
 そして、ゴゴゴ・・・と地面が揺れるのを感じ。
 せり上がったマグマが。

『噴火する・・・っ』

 呻くようなアントーニョの声と共に。

 ドオオン、と噴煙があがった。
 その山は、死んでいたわけではない。
 ただただ、まどろんでいただけ。
 その悠久の眠りを妨げられ、怒りの咆哮をあげる。
 青い空に灰色の絵具で雲を描き足して行くように、煙が広がり。
 どろり、とした真っ赤な溶岩がとろりと零れ出した。
「あ・・・・う」
『ロマーノ!さっきの岩棚に上がるんや!トーリス!溶岩流の被害予想を!』
 オレンジと赤の中間のようなどろりとした粘液は、山肌を滑り降り、緑の樹海をなぎ倒す。
 その美しさに魅入られていたロマーノは、アントーニョの言葉にはっとなって走り出す。
(本田・・・本田は・・・!)
 走りながら、やっとそのことに頭が追い付く。
 使徒と共に山に突っ込んだ本田は・・・!
 叫びだしそうになったロマーノの耳に、アントーニョの怒鳴り声が飛び込んでくる。
『あかん!アル、下がるんや!』
『だって、菊が!菊がいるんだぞ!菊を助けなきゃ…!』
(馬鹿)
 絶望的な気持ちで、ロマーノは心の中で呟く。
(生きてるわけないだろ)
 マグマがたぎる山につっこんで。
(生きてるわけないだろ・・・!!)
 ロマーノは、せり上げてきたものに耐えきれず、エントリープラグ内に嘔吐する。
 赤い水の中に浮かんだ吐瀉物。
 ロマーノは、声なき叫びを上げた。

 その時。

『菊・・・?』

 アルフレッドの声が。
 岩肌に足をかけたロマーノがそちらを見ると。
 富士山の中腹、使徒がつっこんだ穴の横あたりから黒い影が起き上がる。
 それは。
 蝙蝠のような翼。
 出来そこないの人の形をした。
 悪魔のごとき。

 エヴァンゲリオン。

 それは、ふらふらと浮かび上がった。

『菊!』

 よく見れば、装甲も溶け、あるいは砕け、生々しい筋肉や目玉を剥き出しにした異形のそれは、冬の蝶のようによろよろとこちらに飛んでくる。
(こっちに来る!!)
 ロマーノは、夢中で岩肌を登り始める。
 やがて零号機は、墜落するようにロマーノが登っている岩肌にとりついた。
「う・・・っ」
 すぐそばにいるものの異様さにロマーノは顔をしかめる。顔の装甲がはがれ、ぎょろりとした瞼のない目が虚空をにらみ、骸骨がそうであるように剥き出しの歯は笑っているように見え、滑稽さを醸し出す。
 折り畳まれた翼は、襤褸雑巾のように破れ、よく見れば左足の先が千切れていた。
「う・・・ああ・・・あああ・・・」
 エヴァンゲリオンのダメージは、そのままパイロットのダメージとなる。
 中にいる、菊は。
 ふしゅう、と歯の間から息を漏らすと、零号機はいきなり身体を浮かすとヤモリのように急スピードで岩肌を登り始めた。
「ま、待てよ・・・!」
 慌ててロマーノは後を追いかける。
 ふと、ヘリの音が聴こえたような気がして、顔を上げる。
 そこには。
 一台のヘリが空中を舞っていた。

 零号機の傷だらけの右手が、岩棚をひっかく。
 巨人の上半身が、最後の力を振り絞るように削り取られた岩棚の上に大儀そうに引き上げられた。
 そうして、それまで激しく動いていた零号機は、電池が切れたようにがくんと動きを止める。
 岩棚にへばりつくようにして、零号機は静止した。

 宙を旋回していたヘリが、その巨人の顔の前にゆっくりと着地する。
 扉が開き、中から男が現れる。
 金色の髪、何事にも動じることのない冷たい緑の瞳。

 ネルフ最高司令官―アーサー・カークランドだった。

 ―オレ、マルドゥック機関に選ばれたんだよ!
 
 弾んだ声で、扉を開ける。

 誉めてもらえると疑わないその記憶の中の声音は。
 今では、ちくりとした痛みを伴う。

 扉を開けた先で、君は。



 
 エントリープラグが、しゅっと湯気を立てて首の付け根から飛び出す。
 パカリとハッチが開くと、熱い赤い液体がじゅわっと零号機の首を濡らして地面へと流れた。
 その赤い液体が染みた大地を踏みしめ、アーサーはエントリープラグのすぐ下へとやってくる。
 そして、上半身をのぞかせたパイロットへ、手を差し伸べた。
 俯いていた顔を上げた菊は、そこにいるのが誰かを認識する。
 やがて目を細めると、ゆっくりとその手を伸ばした。
 恐る恐る伸ばされた手を引いて、アーサーは力の抜けた菊の身体をエントリープラグから引っ張り出した。
 そうして。

 赤い液体に濡れた菊の顔を覗き込み、柔らかい笑みを浮かべて見せた。

「アーサーさ・・・」
「よく戻った」

 菊の声を、アーサーの低い声が遮る。
 そして。

「おまえを、待ってた」

 言いながら。
 アーサーは、菊の細い身体を力強く抱きしめた。




 記憶の中で、扉が開く。
 紅茶を入れようとしていた君が。
 驚いて振り向いて。
 そうして、みるみる顔をこわばらせる。
 足もとから、びりびりと上がってくる不安。

 ねえ、アーサー?
 君は、喜んでくれないのかい?

 ―おまえは、ヒーローになんて、なる必要はない。


 扉が、閉められる。

 


 噴煙は、いまだ止まらず。
 その優美な形を崩された富士の山は、血を流すように溶岩を流し続けていた。




 

 次号へ続く

17 BACK 19