使徒が。
 山肌にぶつかった時の衝撃。
 そして、噴き出したマグマの。
 触れはしなかったものの、その。
 熱。
(あ・・・ああ・・・あああ・・・)
 ふつふつと。
 皮膚が泡立つ。
 溶けるのだ。
 そう思った時。
 絶叫と共に、菊は飛び起きた。 

 夜が明けようとしていた。
「はあ・・・はあ・・・はあ・・・」
 菊は、心臓を握り締めようとするようにパジャマの薄い生地を握り締める。
 そうして。
 パジャマの袖をまくり上げ、腕をまじまじと見つめる。
 そこには、傷一つない皮膚がある。
 菊はようやく落ち着いた来た鼓動を感じながら、はあ、と一つ息を吐いて。
 ベッドから立ち上がる。
 あの戦闘の後。
 菊は強制的に入院となると思っていた。
 が、意外なことにそうはならなかった。
 検査入院が必要だろう、と言ったギルベルトと医療班に対し、司令が必要ない、と言いきったからだ。
 菊に関しては、司令が日常的に身体のメンテを行っていたこともあり、ギルベルト達もそれ以上強くは出れず、ただ簡易的な外傷などの検査をしただけで終わった。通り一辺倒の検査結果は、完璧すぎるほどに完璧だった。
 そして。
 菊は、帰ってきたのだ。
 この家に。
 ベッドに横たわってはいたが、ほとんど眠っていなかった。
 眠れば、夢を見て飛び起きる。
 夜がこれほど長いとは知らなかった。
 カーテンに手をかける。厚いざらざらとした生地。そして、もう一枚白い薄いレース生地。
 ジャッと音を立ててカーテンが開かれた。
 そして。
 暗い部屋の中に、薄明が差し込む。
 ガラスに映る自分の顔。
 少し顔色が悪く見える他は、いつもと変わりない。
 変わりないことが恐ろしくて、菊は窓を開けた。
 外気が入りこむ。
 常夏となってしまった日本でも、夜明け前のこの時間はひんやりした風が吹く。
 冷たい星の光が見下ろしていた。
 しばし菊は目を閉じて、目覚め始めた街の音を聞く。
 運送業者のトラックの音、新聞配達がポストに新聞を投げ入れる音、犬の啼く声、鴉の鳴き声。
 今日も、かろうじて生き延びた地球の上で日常が始まっていく。
 何気なく、時計を見た。
 それから、気がつかぬうちに時が流れたようだった。
 時計の針が五時半をさした頃、菊はふと物音に気付く。
 そして、気付いてみればもっと前から時折音はしていた気がした。
 鋭敏になりすぎた感覚は、別の感覚を閉ざしていたらしい。
 菊は音の元を求め、部屋を出た。

「よお、天才」
「おう」
 フランシスがギルベルトの個人研究室に入ると、回転いすをギシギシ言わせ、ギルベルトが振り返った。
「その椅子、古いんじゃないの?」
「エドアルドはオレがギッタンバッコンしすぎだっつーけどな、ま、そこらへん座れ」
 フランシスは部屋の隅置かれたパイプ椅子を持ってきて座った。
「おまえ、三日寝てなかったんだって?それで4時間で目覚めて復帰してくるって、タフだねえ」
 持ってきた缶コーヒーを手渡しながら、呆れ声でそういうと、ケセセ、とギルベルトが笑った。
「菊がエヴァと同化したかと思ったら、お次は羽根の生えちまったエヴァだぜ?寝る暇なんてねーよ」
 菊の検査については、アーサーの命令により、ほとんどできなかったが、エヴァ自体は半分はギルベルトの管轄だ。
 不眠不休で突如生えた羽根や、菊が溶けていたと思われる液体を調べたりしていたのだが。
 ふむ、とフランシスが、ぷし、とプルタブを引き抜く。
「で?どうだったの?羽根の生えたエヴァと菊ちゃんは、なんか関係あるわけ?」
 背もたれに片腕を引っ掛け、缶コーヒーを呷ったプロイセンは、んにゃ、と妙な声を出した。
「よくわかんねえ。あの羽根、とれちまったし」
「とれたのぉ!?」
 フランシスが、すっとんきょうな声を上げる。
「おう、乾いた粘土みたいに、付け根からぼろっとな。んで、エヴァはいつも通りだ」
 羽根の生えていた痕すらない。
 はあ〜と感嘆とも呆れともつかないため息をもらしながら、フランシスは背もたれに寄り掛かった。
「エヴァって、なんなのよ」
「オレも知りてえよ」
 ギルベルトのなげやりな言葉に、んじゃさ、とフランシスは身を乗り出す。
「復活した菊ちゃんのほうは?なんともないわけ?」
 その質問に、ギルベルトは、んーっと青い空の広がる窓を見上げる。
「なんともねえよ。怪我も火傷もねえ。なんともねえ・・・が」
 ギルベルトは、友人をちろりと見る。そして、低い声で言った。
「なんともねえ、はずねんだ」
「うん?」
 フランシスが首をかしげる。つまりな、とギルベルトも、膝の上に手をついて身体を乗り出す。
「エヴァの中にいようと―熱やなんかは防げねえ。てか、エヴァとパイロットの身体感覚はつながってるからな。エヴァのダメージはパイロットのダメージだ。・・・普通の人間なら、マグマにあそこまで近づいたら、なんともねえはず、ねんだ」
 フランシスは沈黙する。・・・確かに、その通りだ。
「それは、菊ちゃんがエヴァと同化しちゃったことと、関係あるのかな?」
 ギルベルトは、さあな、と言いながら、うん、と背を伸ばした。
「わっかんねえよ」
 ふうん、と顎髭を触りながら、フランシスは足を組む。
「・・・アーサーは、待ってた、っつったんだってな」
「ああ、そうだ。ま、あいつ、アルの次に菊を可愛がってるからな」
 その話題には、さして関心なさげな声でギルベルトが答える。 
(可愛がっている・・・)
 それは、そうなのだが。
 何か、引っかかる。
 本田菊については、謎が多い。
 出生地は日本になっているが、生い立ちその他は不明だ。
 両親親類は、セカンドインパクトで死亡。
 そこから、施設で育ったことになっているが、その施設はセカンドインパクト後に雨後のタケノコのようにできた非合法な施設の一つで、既に解散しており、関係者も見つからない。
 同じく身寄りを失くした施設暮らしのアルフレッド、ロマーノについては苦も無く調べることができた。
(だが、菊は・・・)
 調べれば調べるほど、その存在の希薄さが目立つ。
 まるで、無から突然現れたようだ。
 彼の存在がしっかりと確認されるのは、彼がマルドゥック機関に選ばれ、このネルフにやって来た時なのだ。
(まるで)
 エヴァに乗るために作られた子供。
 そして、ネルフのメンバーに聞くと、最初からアーサーと菊は知り合いであったという。というか、アーサーが菊を連れてきた、とのことだ。
 だが、アーサーが当時一緒に暮らしていた子供は、アルフレッドのほうであり。
 アルフレッドは、菊についてネルフで会うまでその存在を知らなかった。
 本田菊とは、何者だ?
「菊の身体の事さあ」
 髭をいじりながら、何気ない調子でフランシスが口を開く。ん?とギルベルトが空になった缶コーヒーを机に置いて振り向く。
「アントーニョには、言った?」
 脳裏に、数日前の映像が浮かぶ。
 緑色の非常灯に冷たく照らし出された蒼白な顔。
 ・・・怖いんや。
 初めて聞いた、恐怖に怯える声。
 ギルベルトの声が聞こえる。
「・・・いや。まだ、言ってねえ」
 その言葉に、息を吐く。
「そう。・・・あのさ、事務部門のオレになんにも言う権限ないんだけど」
「あいつに言うなって?」
 ギルベルトがフランシスの言葉を先取りする。ぎし、とよっかかられた椅子が悲鳴を上げる。
 フランシスは淡い笑みを浮かべる。
 友人の言い方で、答えがわかったからだ。
 その笑みを見たギルベルトがなんだか苦い顔をした。
「ったくよう。オレはよ、技術屋なんだよ。医学とか専門じゃねーし。パイロットの身体については、専門の範疇外だ。エヴァとの融合の関係でもうちょっと調べたかったってのはあるけどな。アーサーが手を出すなってんなら、オレは知らねえよ。それでなくても、考えなきゃならねーことが山積みなんだ。これ以上面倒増やせるか」
 うん、とフランシスはうなずいた。
「菊が元気に戻ってきた。それでいいよね」
 あいつには。
「おまえ、オレの話聞いてなかっただろ?」
 不満そうに口をとがらせた友人に苦笑する。
 ギルベルトは技術部門の責任者だ。
 エヴァンゲリオンを使える状態にしておくのが務め。
 パイロットたちは、エヴァンゲリオンに乗って使徒を倒すのが務め。
 アーサーは、エヴァンゲリオンの創造者としての顔もあるから微妙なところだが、とりあえずネルフという機関が機能するよう統括するのが使命だろう。
 そして、アントーニョは。
 パイロットとエヴァを使って使徒を倒す作戦を立て、実行させるのが役目だ。
 逃げるか、と言った言葉に首を振った。
 だから、明日、いや今日にもまた使徒が攻めてくれば、菊を含んだパイロット達を出撃せざるを得ない。
 ならば。
(聞かない方がいい)
 ためらいになる不安材料は、少ない方がいいのだ。
 だが。
(ゼーレのスパイであるフランシス・ボヌフォワは)
 ―知らない、では済まされない。
「もう少し、自分の身体を労わってやったほうがいいぞ。おまえの代わりはどこにもいないんだからな」
 言いながら、フランシスは立ち上がった。
 アントーニョに言った言葉を思い出す。お前の代わりはいるのだ、逃げ出してもいいと。
 だが、ギルベルトはある意味アントーニョよりも逃げ出しにくい位置にいる。
 どんなに優秀な技術者であろうとも、開発から携わったギルベルト以上にMAGIシステムをわかっている人間はいない。
 最後の最後まで、ギルベルトはここで戦いを続けるだろう。
 それはアントーニョも同じだろうが。
(最後の最後?)
 フランシスは、心に浮かんだ単語に自問する。
 使徒は順調に倒されている。
 残された使徒は数体。
 解放の日は近い―はずなのに。
「わあってるよ」
 友人の声を聞きながら。
 胸騒ぎが抑えられなかった。

 音の出元はすぐにわかった。
(・・・リビング)
 正確には、リビングキッチンの中、だ。
 菊が淡い光の漏れたリビングのガラスのはめ込まれた扉を押しあけると。
 あ、と声が上がった。
「アルフレッドさん・・・」
「き、菊、早いね・・・」
 包丁を下ろしながら、キッチンの中でアルフレッドが気まずそうな顔で言った。
「えっと・・・アルフレッドさん、何してらっしゃるんですか?」
 思わず聞くと、アルフレッドは苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「キッチンにいて包丁持って、これから縄跳びするんだ、とかないだろ?料理してたに決まってるじゃないか」
「アルフレッドさんがですか?」
 思わず目を瞬く。一緒に暮らし始めてから、アルフレッドがキッチンに立つところなど見たことがなかった。
 キッチンにいるのは、お湯を沸かすか冷蔵庫を開ける為だけだ。
 出来たんですか?と聞きそうになって、さすがにやめる。
 今まさにそれをしている人に向かって失礼だろう。
 それにしても。
「・・・あの、5時半ですよ?」
 今日から学校が始まる。
 しかし、8時過ぎに家を出れば十分間に合うのだ。
 普段のアルフレッドは、7時半に叩き起こそうとしても、なかなか起きようとしないのに。
 アルフレッドは、包丁を持ったまま、うーっと唸った。
 そして、彼にしては不明瞭な声でぼそぼそと答えた。
「なんか・・・眠れなくってさ。ぼんやりしてるのもなんだなあと思って・・・朝ごはん、作ろうかなって。たまには」
 朝ごはん。
 リビングの入り口に立ちつくしていた菊の身体の深いところに、ようやくその単語が到達し。
 その意味が身体の隅々に、浸透する。
 アルフレッドが早起きし、慣れない包丁で料理をしようとしている、その意味が。
 菊は、身体のどこかに火が灯された気がした。
 固くなっていた頬が、ゆるゆると緩んでいく。
「あの・・・」
「なんだい」
 なぜか怒られでもしたような意地っ張りの顔を向けるアルフレッドに。
「ありがとうございます」
 と、深々と頭を下げると。
 アルフレッドは、ふあ、と謎の声を上げた。
「ななななんだい、それ!」
「感謝の気持ちです」
 え、え、とアルフレッドが包丁を持ったまま、うろたえる。危ない。
「朝ごはん作るのって、そこまでされるほどのことなのかい!?じゃあ、オレ、毎朝それやらないといけないじゃないか!」
 いえ、と菊は微笑んだ。
「アルフレッドさんの気持ちが・・・嬉しかったんです」
 そう言うと、菊はパジャマをまくりあげる。
「えっと、お手伝いしましょうか?」
「や!いいよ!もう、あとちょっとだし・・・大丈夫だって!」
 ちらりと流しを見れば、色々な器具がそのまま桶に放り込んである。料理をしながら手際よく片付けて行く菊がキッチンに立つときは、料理が終わった時には同時に片付けも終わっているのだが。
「ゆっくりしてるといいんだぞ」
 アルフレッドの言葉に、菊は再び微笑んだ。
「ではお言葉に甘えて、身支度を整えてきます」
 そう言うと、アルフレッドの顔がぱっと明るくなる。
 そして、うん、とうなずいた。
 
 それから、顔を洗い歯磨きをし、制服を着てリビングに戻ると。
 そこには、食事の用意が出来ていた。
 窓の外を見れば、すっかり夜が開けている。
 その朝のまっさらな光に照らされて、白いテーブルの上に並んだ朝ごはん。
 白いご飯と、お味噌汁。
 そして、焼き鮭と卵焼き、ほうれん草の胡麻和え。
「・・・アルフレッドさん」
「なんだい?」
 お箸を持ってキッチンから出てきたアルフレッドに向かって口を開く。
「・・・てっきり、洋食かと思っていたのですけれど・・・」
 すると、アルフレッドは驚いた顔をした。
「え!?菊、パンのほうがよかったのかい?!え、でも、いつも朝ごはんは日本食のことが多いじゃないか!?」
「あ、いえ、そうじゃないんです。そう言う意味じゃなくて・・・」
 言いながら、しかし言葉が詰まった。
 今までの生活習慣と異なる日本の料理を作るのは、普段料理をしないアルフレッドにすれば馴染みのある欧米料理より大変だったろうに。
「あの、ありがとうございます」
「あーもー!なんなんだい、さっきからそれ!いいから、座ってくれよ!」
 くるりと反転させられ、背中を押され席に着かされた。
「はい、おはし!」
 そして、いつも使っている箸を握らされる。
 アルフレッドは、菊の前の席に素早く座った。
 そして、いただきます!と声を上げる。
 そのアルフレッドをぼけっと見ていた菊は、やがて小さな声でいただきます、と呟くと。
 味噌汁に一口くちをつける。
(あれ・・・)
 口にした途端、気付いたことがあったがあえて口にはせず、目の前でつやつやしたオレンジ色の身を見せている鮭をほぐし、口に運ぶ。
 そして、次の瞬間。
 同じように鮭を口に入れたアルフレッドと顔を見合わせた。
「あの・・・アルフレッドさん、これ・・・塩抜いてませんよね・・・?」
「し、しょっぱいんだぞ・・・?」
 これは、寒風干しのいい紅鮭なのだが、いかんせん塩が濃い。塩抜きしないと、とんでもない塩辛さになってしまうのだ。
「塩抜き!?そんなの、しないといけないのかい!?」
「ええ・・・ああ、鮭には色々ありましてですね・・・」
 言いながら、卵焼きに箸を伸ばす。かなり不格好だが、それなりに卵焼きの形を作っている。
 それを口に含むと。

 お約束のように、ガリ、と殻を噛み砕く音が口の中で響いた。

「・・・あれ〜?中に入った殻は全部すくったと思ったんだけどな〜」
 アルフレッドが、は、は、は、とぎこちなく笑い、そしてしゅんとうなだれた。
「・・・ごめん」
「いえ、美味しいですよ。殻は、取り除けばいいんです。それから・・・そうですね、アルフレッドさん、お茶いれていただけます?」
 うん?と、アルフレッドが顔を上げ、急須を取り寄せる。
 そうして、茶筒から茶葉を取り出し、急須にお湯を注ぐ間、菊はキッチンへ行き、海苔を持ってきた。
「淹れたよ」
「はい、じゃあ、鮭をほぐしてご飯の上に乗せてください」
 言いながら、自分も丁寧にオレンジ色の身をほぐして、ご飯にのせていく。
 その作業が終わった後、菊は急須を取り上げて、アルフレッドのお茶碗の上にかける。
 湯気の立つ翡翠色の液体が、白とオレンジの二色を沈めて行く。
 そうして、持ってきた海苔をちぎってぱらぱらと上にかけた。
「どうぞ」
「これって」
「お茶づけですよ」
 言いながら、自分の茶碗にもお茶漬けをつくる。
 そうして、茶に浸かった鮭とご飯を口の中に流し込む。
「あ、美味しい。しょっぱいの、平気だね!」
 アルフレッドが目を輝かせ、そして菊を見。
 そして、絶句した。
「え・・・あ・・・?な、なんで、泣いてるんだい・・・?」
 え?と、菊は驚いて目を瞬く。すると、視界がぼやけた。
 目元に触れる。
(おや、本当に・・・)
「泣いてますね・・・」
「泣いてますね、じゃないよ!なんだい!?どっか、痛いのかい!?」
 アルフレッドが乗り出して、菊の顔を覗き込む。
 その顔を、菊はまじまじと見つめた。涙で歪む瞳で。
「痛くは・・・ないです。どこも。ただ・・・」
「ただ、なんだい!?」
 心配そうなアルフレッドの顔。口の中に広がっていく塩けは。塩鮭のせいだけじゃなくて。
(ああ・・・私は)
「ただ・・・幸せで」
「え!?」
 温かいお茶碗と、箸を両手に持って。
 菊は少し視線を落とす。
 不格好な殻入り卵焼きと。
 どうやらだしの入っていない味噌だけの味噌汁と。
 しょっぱすぎる鮭と。
 それらは、全部。
 ことん、と茶碗を置いて。箸もその前に並べて箸置きに乗せる。
 そうして。
 菊は、堰を切ったように涙があふれる目を閉じ、まぶたを押さえた。
(私は・・・)
 澱んだ暖かい水の中で。
 痛みからも苦しみからも守られた場所で。
 それでも、出て行こうと思ったのは。
「よかった・・・」
「菊・・・」
 手をずらして、両の掌で鼻を挟みこむようにして涙で真っ赤になった目をアルフレッドに向ける。
「アルフレッドさんのところへ・・・帰ってこれて・・・本当によかったと・・・」
 本当に・・・と顔を伏せる菊を見つめ、アルフレッドは小さな声で、うん、とうなずいた。

 テーブルの上には、今日も眩しい日の光が差し込んでいる。

         

         

 正直、少しだけ菊に会うのが怖かった。
 エヴァは蛹なんだと、副司令は言った。
 蛹の中でどろどろになった菊は、はたして何になって出てくるのか。
 戦場に現れたエヴァからは悪魔のような羽根が生えた。
 それは、容易に想像させたのだ。
 蛹から孵った蝶を。
 そんな可愛いものには、見えなかったが。

 だが、いつも通りアルフレッドと共にマンションに迎えに来た菊は普段とまったく変わらなかった。
 ロマーノは、ほっとして菊を得体のしれない化け物のように思った自分を恥じた。

 そうして。

 新学期が始まる。

「すげえっぺな。使徒を富士山にぶっつけてやっつけたんだってな!?」
 オヤジ臭く新聞を広げたデンさんが話しかけてきた。
 おはよう、とか、久しぶり、とか、そういう会話は一切なし。
「や〜エヴァってなあ、すごいことができるんだべなあ。オレも一度乗ってみてな」
 その言葉に。
 少々ささくれ立っていたロマーノの心がカチンと音を立てた。
「・・・乗りたきゃ、オレの代わりに乗ってくれよ」
 ん?と、ロマーノの口調のきつさにデンさんが新聞から顔を上げる。その前でいつも通り野菜ジュースをすすっているノルが顔を上げた。
「富士山に使徒ぶっつけたのもオレじゃねえし。オレは、別に」
 ロマーノはいぶかしげな二人の視線を避けるように顔をそむけた。
「何にもしてねえよ」
 いつもな。
 そう言うと、すたすたと歩き出し、自分の席へと向かう。
 おはようございまーす、と明るい挨拶をしながらデン・ノルに近づいてきたティノがロマーノに気付いて、二人に疑問の視線を投げるが、デンとノルは肩をすくめただけだった。

「よーし、ガキども、生きてたか〜?1,2,3・・・30。全員いるな。よし、OK」
 担任のサディクが入ってきて、実に適当な主席を取り始める。
(生きてたかって、洒落にならねえよ)
 ロマーノは苦笑する。このクラスには、使徒と命を賭けて戦っている生徒が三人もいるというのに。
 まあ、もし仮に担任が腫れものにさわるように三人を扱ったらもっと気持ちが悪いな、と思い直す。
 普通に扱ってもらった方が気が楽だ。
 明日も、明後日も、普通にここに座っていることが当たり前の他の生徒たちと同じように。
(でも・・・オレは)
 明日、ここに座ってる保障はないのだ。本当に。
 ここ数日の激動を思えば。
 エヴァの中に取り込まれた菊。おばけエイとの戦い・・・。
(むしろ、今まで生きてたのが奇跡・・・だよな)
 本当に奇跡だ。
 自分のように不器用で臆病な人間が。
 人類を守るために、あんなものに乗って戦うなんて。
 ひどい冗談としか思えない。
 そんな冗談に乗ってしまったのは。
(あいつの・・・せいなんだよな)
 頬杖をついて窓を見上げる。
 青い空。
 必要だ、と言ったから。
 ロマーノが必要なのだ、とそう言ったから。
 そんなことを言われたのは・・・初めてだったから。
 誰かに。
 『必要』と。
 されたかったんだ・・・。
 だけど、使徒と戦うのは怖い。
 エヴァンゲリオンも怖い。
 怖くて怖くて・・・たまらない。
 菊やアルフレッドみたいになんてなれない。
 だけど。
 ロマーノは自分でよく知っている。
 ネルフから、エヴァンゲリオンのパイロットという立場から逃げることも。
 また・・・怖いのだ。
 よおやった、と誉めてくれるあの手を失くすことも。
 菊とアルフレッドを残して戦場から去ることも。
 ネルフのメンバーに失意の目を向けられることも。
 考えるだけで―怖い。
 また、誰も『必要』とされない子供に戻るのが。
(怖ええよ・・・)
 怖くて、たまらない。
 だから、ロマーノはまたエヴァに乗るだろう。
 どんなに怖くても。
 逃げることすら怖いなら。
 このまま流されるしかない。
 けれど。
 巨大エイとの戦いで、ロマーノは何の役にも立たなかった。
 菊が復活しなければ、人類は負けていたのではないだろうか?
 このまま。
(パイロットを続けていいのかな・・・)
 ロマーノは、気付かないうちにノートに無意味な言葉をかきつけていた。
 エヴァ、ネルフ、使徒、・・・アントーニョ。
 そうして、それに気づいて慌てて消しゴムで消し去った。

「よお、今帰り?」
「フランシスさん」
 ネルフを出たところで声をかけられ振り返ると、フランシスが立っていた。
「フランシスさんもお仕事おしまいですか?」
 柔らかい笑みを浮かべるマシュー・ウィリアムズにフランシスは苦笑を投げる。
「ま、オレのは雑用だから」
「あはは、僕だって変わりませんよ。副司令なんて曖昧な仕事ですから。主に雑用です」
 そっかあ、そうかもな、とフランシスはうなずいた。そうして、二人は歩き出す。地上の駐車場までけっこうあるのだ。
「で、司令君は?」
「アーサーさんは、今日は仕事で残るそうですよ。なんか夢中でやってるから、今日は帰ってこないでしょうね。食事くらい、ちゃんととってくれるといいんですけど。何かに没頭しちゃうと、寝るのも食べるのも忘れるんで」
「いかにも研究者だな。ギルベルトは寝るのはさぼるが、食うのはしっかり食うんだよな〜食いながら仕事する」
 ギルベルトさんらしいですね、とマシューは微笑んだ。
「本当に仲いいですよね、フランシスさんとギルベルトさんと、それからアントーニョさんは」
「まあねえ。学生の頃からの仲だしね。まあ、ある意味君のボスもそうだけど。・・・けど、オレは社会人になってからはずっとフランス拠点にしてたからなあ。ギルベルトにもアントーニョにも会ってなかった。それでもまあ、昔と同じテンションにすぐ戻るもんだなあって感心したけど。なんか、日本に帰ってきてから、学生返りした気がするもん、オレ」
「ほんとですね、ずっと離れてたなんて、信じられないくらいですよ」
 くすっとマシューが笑う。その顔をつくづくと見つめる。
「なんです?」
「いや、本当に似てるなあと思って」
 そういうと、マシューは苦笑した。
「アルとは兄弟じゃないですからね?」
「知ってるよ。従兄弟だろ?」
「初めて会って以来ずっとそう言い続けてるのに、アントーニョさんはいまだに知ってくれないんですよ、それ」
 あはは、ごめんねえ、と思わず謝る。
「ま、でも、兄弟みたいなもんでしょ?」
「まあ・・・そうですけどね」
 少しの間、沈黙が降りた。
 地上へあがるエレベーターの前にくる。ボタンを押した。
「ここがどれだけ地下にあるか考えると目眩がするよな」
「そうですね」
 言いながら、二人は降りてきたエレベーターに乗り込んだ。
「なあ、聞いてもいいかな?」
「何をです?」
「どうして、君らはアーサーと一緒に住んでるんだ?」
 両面がガラスになっているエレベーターの内部は様々な光に照らされながら、地上へと向かう。巨大のネルフのシステムを実感する時間。
 その唐突な質問を、マシューは予想していたように微笑んで受け止めた。
「アーサーさんが望んだからですよ。僕らにとって都合もよかった。僕はようやく軍に入ったばかりのひよっこ。あちらは軍で大きな力を持つ人だ」
「アーサーは、なぜそれを望んだ?」
「アルと一緒にいる為でしょう」
 当然というように、マシューはにこりと微笑んだ。
 フランシスは肩をすくめる。
「それから、アルもアーサーさんになついていましたからね」
「わかった。質問を変えよう。なんで君らはアーサーと知り合った?軍の研究者とひよっこの軍人はともかく、アルまで?」
 マシューは一瞬遠いどこかを見るような視線を送る。
 フランシスが口をつぐんでいると、マシューが口を開いた。
「僕が配属になった場所で・・・本当は僕はその日は非番で。ただ、忘れ物をしてて・・・取りに寄ったんです。その後、買い物に行くつもりでアルと一緒に。ロビーで待ってて、てそう言ったんですけど」
 たまたま受付の女性が目を離したすきに、アルは消えた。
「それで、アルはアーサーと一緒に見つかった、てことか?」
 ええ、とマシューはうなずいた。
 フランシスは目を細める。
 チン、とオーブントースターのような音が鳴る。
 地上についたのだ。
「軍病院ってのは、案外セキュリティが甘いんだな」
 しかし、やはりマシューは顔色を変えなかった。
「7歳の子供ってのは、どこへでも潜りこんじゃうものですよ。猫みたいなものでしょう?植え込みから、中庭に侵入しちゃったんです。その時アーサーさんは・・・庭にいた」
「意志の疎通は出来たのか?」
 マシューは、やはり笑みを崩さなかった。
 二人は外へ出る。
「・・・よくご存じですね。その時のアーサーさんの状態を」
「これでも、特殊監査部なんでね。内部のことには、案外詳しいのさ」
 そうですか、とマシューはうなずいた。
「アーサー・カークランド。16の若さでアカデミーから軍部へ入部。それから、軍研究部に所属しており、研究中に事故が起こる。その事故がきっかけで半年間意識を閉ざす。生きてはいるが、何も言わず何の反応もしない。だが、半年後突如軍部に戻り、ネルフを作りエヴァンゲリオン作成にとりかかる」
 つらつらと一部の人間しか知らない機密を並べ立てる。 
 数少ない「一部の人間」は、遅れて微笑んだ。
「その通りです。意志疎通はできなかったみたいですよ。・・・その時までは」
 その時までは。
 フランシスはわずかに目を見開く。
「まさか、アーサーが正気になったのは、アルフレッドに出会ったからって言うのか!?」
 マシューは、しかし笑顔でうなずいた。
「そうですよ」
「・・・オレは今、愛の偉大さについて熟考したい気分だよ・・・マジかよ、なんだそれ、アル天使か」
「天使なんじゃないですか?」
「マシューちゃん」
「アーサーさんにとっては」
 マシューの言葉に、一瞬言葉に詰まる。
「まあ・・・そうね。そうだね。あいつにとっちゃ、そうだろうね。え、でも、なにそれ、一目惚れ?七歳児に?あいつ、大丈夫?」
「はは、でもねえ、アルは昔から愛される子供でしたから。愛されるのが当然って、そういう人間っていますよね?アルは間違いなくそういう人間なんですよ」
 中庭には。
 光が差し込んでいた。
 夕暮れの光が。
 斜めに二人を照らしていた。
 それはどうしてか。
 神聖な光景に見えたのだ。
 まるで、そこで一つの聖なる約束が交わされたように。
「アルの両親はね・・・僕の両親より、先に死んだんです」
 駐車場に続く廊下を歩きながら、ぽつんとマシューが言った。
「アルの母親は、僕の母にアルを預けました。でもね、守り切れなかったんですよ」
 フランシスは黙ってマシューの言葉を聞く。いたましい、とは思うが、この国だけではない世界中で起こった数多の悲劇の一つでしかない。もっと耳を覆うような話をいくらでも聞いてきた。自分自身の生い立ちだって、笑えるほど痛々しい。
 淡々とマシューが続ける。
「死に際に母は、アルをよろしくね、お兄ちゃんなんだから、と言いました。僕は10歳、アルは2歳でしたよ。父親はいませんでした。はぐれて、そこから今まで行方も知れません」
 あの時の絶望と。
 アルの身体の暖かさを。
 今も、覚えてる。
「母がそう言ったから。アルを守る。それが僕のすべてでした。セカンドインパクトの後の世界は怖くて。本当に・・・怖くて」
 どこもかしこも。
「僕はとても臆病ですから、アルがいなきゃ多分すぐに死んでたと思います。自分でも、なんで生き延びられたかわからない。けれど、ともかく僕らは施設に拾われることができました」
 それが、僕のすべて・・・か、とフランシスが呟くのが耳に入る。
「それは、今も?」
 その質問に、マシューはやはり笑みを浮かべ、ためらいもなく答えた。
「ええ」
 ―アル!アル、どこなの!?アル!?
 雨の音。
 半狂乱で探し回ったあの夜の記憶が蘇る。
 ―アルを失ったら、僕は。
 この怖い世界で。
 どうやって。
 そうして。
 アルは戻ってきた。
 あの人の腕に抱かれて。
「なんで、あの子の周りはこう偏執的な愛情の持ち主が多いんだろうねえ、ちょっと同情するわ」
 フランシスは天を仰いだ。
 駐車場へとようやくたどり着く。
「では、お疲れ様です」
「ああ・・・なんか、悪かったな。辛いこと、思い出させて」
 フランシスの言葉にマシューは、いいえ、と首を振る。
「もう、昔のことですから」
 そう言うと、マシューは自分の車に乗り込み、会釈して発進させた。
 フランシスは、自分の車に乗り込み、それからしばらく運転席に座ってぼんやりと殺風景な駐車場を見つめる。
 そして。
 携帯を取り出すと、電話をかけた。

 そのおでんは、自信満々に言うだけあって美味しかった。
「常夏になった日本でおでんとはねえ。もう、滅びた食べ物だと思ってたよ。失礼ながら」
 しかも、屋台のおでんとは。
「冷製おでんってのも、セカンドインパクト前からあったらしいで。ほれ、このトマト、出汁効いててめっちゃうまいんやから。めっちゃめっちゃ」
 めっちゃめっちゃ、と言いながら、まるごとのトマトをフランシスの皿の上に乗せる。
 公園の片隅で店を開いていた屋台のおでん屋には、二人の他に客はいなかった。
「トマトのおでんかあ・・・」
 冷たい出汁にひたった湯剥きされたトマトに箸を入れると、じわっと出汁が皿の上に溢れた。
 4等分して鰹節と一緒に口に運ぶと。
「おお、美味い」
 びっくりして、思わず口に出す。程よい出汁の効き具合がトマトの酸味と相まって確かに美味しい。 
「せやろせやろ、あ、おっちゃん、次オレ大根な。今度はあったかいやつで」
 あいよ、とも言わず無口な店主は右側のエリアから大根をすくいだす。いい色になっていて、これも美味しそうだ。右側が暖かいおでんのエリア、左側が冷製おでんのエリアらしい。常夏になった日本なら日本なりのおでんの楽しみ方があるらしい。順応性の高い日本人らしい発想だ。
「もう仕事いいのか?」
 たこあしと昆布をもらって口に入れる。たこの弾力が心地よい。ビールを次に流し込んだ。
「自分で呼びだしといて何言うとんの、この子。使徒が来てない時の仕事なんて、8割どーでもええねん」
 いや、8割は高いだろう。
「あ、そう。じゃあ、ロマーノとのふれあいの時間奪っちゃって、大丈夫だった?」
 ロマーノなあ・・・とちくわにからしを塗りながら、アントーニョはため息をつく。
「なんかなあ・・・ちょっと様子がおかしいんよ」
「あらら、まあ、色々あったからねえ。ショックも受けるでしょ。なら、一緒にいなくて平気?」
「自分で呼びだしといて何言うとんの、この子。・・・多分な〜今はオレがいんほうがええ気がする。今日、友達と飯食うてメール来たし」
「友達?アルと菊か?」
「それじゃ、あの二人しか友達おらんみたいやん。や、ちゃうなあ。あの二人やったら、名前で言うわ。ロマーノが「友達」って言うときは、別の子なんよ」
 ぷは、とビールを飲み干すと、おっちゃんもう一本、と身を乗り出した。
「別の子?」
 ああ、とアントーニョはビールを受け取る。
「オレは会ったことないねんけどな。しんどくなる時、話聞いてくれる友達がおるんよ、ロマーノには」
 そう言って、アントーニョはビールを口にする。
 フランシスは頬杖をついて、アントーニョの横顔を眺めた。
「嬉しそうねえ、お母さん」
「なんで、お母さんやねん」
 てい、とアントーニョがフランシスに突っ込みを入れる。
「おかんやないけど・・・ロマーノにそういう友達がいるの、嬉しいのは確かやな。アルと菊はそらあ、大事な友達や。けど、運命共同体すぎて、多分話せんことかてあるやろ。オレも同じや」
 近いからこそ、話せないこともある。
「使徒と戦わない友達が必要ってことね」
「そういうことや。―おまえみたいな、な」
 そう言うと、これも食いや、ともちきんちゃくを皿の中に放り投げてきた。

「食ったな〜」
「食うたわ〜」
 言いながら、二人はベンチの上にどかっと腰を下ろす。
 空を見上げる。
 星が綺麗だった。
 こんなに酔っぱらってる時に使徒が来たら困るだろうなあ、と隣の作戦部長を心配する。
 が、多分口に出せば、「今日は使徒はお休みやて」と平気で笑うだろう。
 いつしか、マシューの話を思い出していた。
 母親に託された幼いアルを抱くマシュー。
 軍病院の中庭で車いすに座った無表情のアーサー。
 見たこともない光景が、次々と夜空に浮かんでくる。
「なあ」
「うん?」
 すぐそばにいるアントーニョの気配が、アルコールを媒介にしておでんの出汁みたいに染み込んでくる気がする。
(ずっと、離れてたくせにな)
 アカデミーで一緒にいたのは、三年間とちょっと。
 そうして、7年も離れてて、再会したのはつい最近だ。
 25年も生きていて、一緒にいたのはほんの三年と半年くらい。
 6分の1にも満たない時間なのに。
「フランス、どやった?」
「どやったって?」
 意味を測りかねて尋ねると、だから・・・どうやったって、と答えにならない答えが返ってきた。
「フランス・・・ねえ。同じさ。世界で一番綺麗な街。それから、滅びが似合う街だ」
 さよか、とアントーニョが答える。
「アントーニョ?こんなとこで寝ちゃだめよ?」
「寝えへんよ」
 ヨーロッパ、か。
 つい最近まで拠点にしていた生まれ故郷を思う。
 そのとき、こつ、と肩に何かが触れた。
「寝ないんじゃなかったの?」
「寝とらんて」
 そう言って、アントーニョはフランシスの肩に頭を預けたまま笑った。
「ねえ、アントーニョ。そのうち・・・使徒倒して、全部終わったらさ」
 フランシスは空を見上げた。
 故郷に続く星空を。
「ヨーロッパ、行かないか」
「・・・ヨーロッパ、かあ。アカデミーに入ってから、一度も帰ってへんなあ・・・」
 うん、とフランシスはうなずいた。
「ギルもそれは一緒でしょ?三人でさ、また前みたいに旅行しよう。電車に乗ってヨーロッパを回るんだ」
 何でもなくても、何があっても。
 3人でいれば、笑っていられた。
 あの頃は。
 バラバラになることはわかってても、その日が本当に来るってことはどこかわかっていなかった。
「ええね。・・・せやったら、スペインのひまわりが見たいなあ・・・」
 スペインのひまわりか。
 アントーニョの生まれた場所に行ったことはないけれど。
「日本のひまわりってな〜めっちゃ背えが高いやん?オレの背丈よりでかくなるんやで?最初びっくりしてもうたわ。うちのひまわりは、もっと低いからなあ」
「そうだな〜確かに日本のひまわりって背高いよなあ」
 なあ、おかしいよなあ、とアントーニョは笑った。
「・・・オレが好きやったひまわりの花畑は・・・もう、ないけどな」
 その言葉に暗いものが少しだけ混じる。それは、全人類が持っている痛みの味。
 フランシスは、アントーニョの指に自分の指を絡ませる。相変わらず子供みたいに高い体温。
「ひまわりは、咲いてるよ」
 お前の見た花畑でなくても。
 種は運ばれて。
 他の場所で誇らしく咲いているだろう。
 せやね、とアントーニョは眠そうな声で答えた。

 波の音と。
 コンビニ弁当の空の容器。
 空になったジュースの缶に、海水をためる。
 そうして。
 平たい石の上にやっとこさっとこ火をつけた蝋燭の蝋をたらして、ろうそくを乗せた。
「おお・・・完璧じゃね?」
 ロマーノの言葉に、ほんとだね〜と同じようにろうそくの火を覗き込んだフェリシアーノが微笑んだ。
「じゃあ、兄ちゃん、花火しよ、花火!」
「おお・・・ちょっと待てよ?えっと、説明によると、こっちを下にして火をつけるらしい」
 ロマーノは取り出した厚紙の説明書を見ながら、フェリシアーノに花火を渡す。
 線香花火のみが10本ほど入った花火セットだった。駄菓子屋の隅で埃をかぶって売っているような。そもそも最近、花火なんてあまり見ない。
 イタリアには、こんな花火はなかった。
 本当にセカンドインパクト前の古いものなのかもしれない。
 フェリシアーノが、兄ちゃん、これ、やりたいと笑顔で取り出してきたもの。
 フェリシアーノが真剣な顔で火をつける。
「わあ・・・」
「おお・・・」
 フェリシアーノが感嘆する。オレンジ色の火の玉の周りに、ぱちぱちと閃光がまとわりつく。
 ロマーノもうずうずして、花火を取り出した。同じようにすると、火の玉が出来たが。
 ぽたん。
「げ・・・っ」
「落ちちゃったね」
 ロマーノの火の玉は根性なく、すぐに砂の上に落ちてしまった。
「なんだよ、これ、不良品か!?」
「まあまあ、はい、これ」
 フェリシアーノがもう一本渡してくれる。また火をつけると、今度はぶるぶるする大きな火の玉ができて、見つめているとどうやら安定し、ぱちぱちと火が踊り始めた。
「ね、兄ちゃん」
 花火の光を見つめながら、フェリシアーノが口を開く。
「うん?」
「なんか、悩みある?」
 ぎくっとした。
「なんでだ?」
「そういう顔・・・してたから」 
(ああ・・・そうか)
 ロマーノの見つめる先で、しゅう、と花火が消えた。これが終焉らしい。水の入った缶につっこむ。
「あるに決まってんじゃねえか。世界を救うヒーローなんて、柄にもないものやってんだからよ」
 次の花火に火をつける。
 気がつけば。
 ここに来てた。
 ここに来れば。
 この海岸に来れば。
 フェリシアーノがいるんじゃないかと。
 そう思っていたことに、フェリシアーノの微笑みを見つけた時に気づいた。
「聞いた方がいい?」
 静かなフェリシアーノの声が、波音と共に心に入ってくる。
 いや、とロマーノは呟いた。
「・・・いい。けど、もうちょっと」
 ここにいていいか、と言うと。
 いつまででも、と弟は囁いた。

 星が、輝いていた。

            

 夜明け前の街を。
 菊は、歩いていた。
 あてどなく。
 昨日と違って、アルフレッドはちゃんと眠れたようで。
 そっとそれを確かめて。
 菊は、マンションを抜けだした。
 ポケットに、必要なものだけ入れて。
 夜の街は、想像以上に無関心だった。
 繁華街を抜けて、街を見下ろす高台へと向かう。アルフレッドとロマーノと、三人で街を見下ろした場所へ。
 ポケットの中の折り畳みナイフをいじりながら、坂を登っていく。
 段々と街が視界の中にコンパクトに収まるようになっていく。
 キラキラと輝く街を見下ろしながら。
 菊は、周りに人の気配がないことを確認し。
 そうして、ナイフを取り出した。
 刃を取り出し、それを腕にあてがう。
 腹に力をため、息を止めると。
 すっと縦にナイフを引いた。
 ぷつ、と血がにじんでくる。
 菊はそれを息を飲んで見守る。
 次の瞬間。
 わずかな血の痕跡を残し。
 傷はものの見事に消えた。
 菊はナイフを握り締め、そして、小さく呻いた。
 指先が小さく震えていた。

 少し、眠っていたようだった。
 椅子に座った態勢でうとうとしていたため、身体がこわばっている。
 腕時計を見ると、午前4時すぎ。
 コーヒーでもいれるかと、立ち上がった時だった。
 扉の向こうに、人の気配。
(―ああ)
 アーサーは目を細めた。
 すりガラス越しに窺える訪問者の背丈は、大人のものではない。
「入れよ」
 声をかけると、ためらいがちにその影は動いた。
 すっと自動ドアが開く。
 アーサーは、椅子に座り直す。
 そして、夜明けの訪問者を見つめる。
「どうした?菊」
 本田菊は黙って、ナイフを取り出した。
「・・・・」
 アーサーは、驚くでもなくそれを見つめた。
「で?」
 菊は、押し黙ったまま、ナイフの刃を自分の腕に押し当てた。
 わずかに苦痛で顔をゆがめながら、腕をひじから下に向かって切り裂いた。
 アーサーはわずかに口を開く。
 だが、言葉になる前に。
 それは、起こる。 
 切り裂かれ、血が噴き出すはずの傷口は見ている間に恐るべき速さで修復されたのだ。
「・・・やはり、驚かれないんですね」
 アーサーの碧の目は、研究者の目だった。研究対象を興味深く見つめる科学者の目。
 菊は、手を握り締める。
 アーサーは、膝の上で手を組む。
 そして、菊を見上げた。
「で?どうしたい?」
 そのナイフで。
 オレを殺すか?
 その言葉に、菊はわずかに唇を噛み、そして首を横に振った。
 そうして、まっすぐにアーサーを見つめ、こう言った。

「真実を」

 教えてください、と。

 真実。

 アーサーは立ち上がる。
 そして真摯な目で自分を見上げる子供に近づき、そっとその髪に触れた。
 つややかで、くせのない黒い髪。
 固くてくせのある自分の髪とも、やわらかいアルの金の髪とも異なるもの。

「ああ・・・いいぜ」

 菊が、アーサーを見つめる。

 アーサーは微笑んだ。

「おまえに、真実をくれてやる」

 地下にあるジオフロントに。

 朝日の光は、届かない。
  

 
 

 次号へ続く

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