「は?今、なんて―」
「ええ、ですから」
黒い瞳を、まっすぐに向けて。
出会った時のように。
表情のない瞳を。 「菊―・・・」
「私は、ここから出ていきます」
そう言って。
本田菊は、やっと微笑んだ。
*
電話がつながったのは、ようやく2時間目が終わったところだった。
「は!?本田がいない?それ・・・どういう意味だよ?」
思わず大きな声を出してしまい、ロマーノは慌てて声をひそめる。
学校の廊下の端。
窓を開けて乗り出せば、濃厚な雨の気配が漂う。
分厚い黒雲からは、昼過ぎに雨が降ってくるだろうと朝の天気予報で言っていた。
小さな携帯電話の向こうから、アルフレッドの声が聞こえてくる。
―菊がいないんだ。
そう言った彼の声は、しかし内容とは裏腹にあっさりしたものだった。
むしろ、ロマーノの方が慌ててしまったくらいだ。
『うん、目が覚めたら部屋に菊がいなくってさ。オレも慌てて外に飛び出しちゃったんだけど、考えてみたら当てもないし、お腹も空いたからハンバーガー食べたりしてたんだけど、ああ、なんかもう、今日は学校行かなくてもいい気がするな、と思って』
「いや、なんかよくわかんねえけど・・・ま、学校なんか、どうでもいいけどさ・・・なんだ?おまえら、喧嘩でもしたのか?」
あの温厚で尚且つアルフレッドに甘い菊じゃあ、喧嘩にもそうそうならなそうな気がするが。
いいや、とアルフレッドの声が否定する。
『喧嘩なんてしてないよ』
「じゃあ、その・・・」
なんで、という質問にアルフレッドは軽く息をついた。
『なんでなんだろうな。オレも知りたいよ。全然連絡付かないし・・・オレはもうちょっと外探して、家に戻る。ロマーノは、万一菊が学校に来たら、連絡をくれないかい?』
「あ、ああ、そりゃかまわないけど・・・そうだ、アントーニョには言ったのか?今日は訓練どうすんだ?」
1秒ほどの沈黙。
『いや、まだ言ってない。ていうか、多分言う必要ないと思うよ。菊は、訓練には顔見せるんじゃないかな。もちろん使徒が来たら出ると思う』
「そう・・・なのか」
なんと言ったらいいかわからず、微妙な相槌をうつ。菊は真面目だからね、というアルフレッドの言葉には奇妙な説得力があるけれど、だがしかし、ではなぜ明け方に黙って家を抜けだしたりしたのか。異常な事態であることは間違いないのに。
「・・・アル、なんでおまえ、そんなに落ちついてんだ?」
『うん?』
「うん?じゃあねえだろ。菊がいなくなったっつったら、おまえもっと取り乱してもよさそうなもんなのに、なんか・・・」
なんか。その後の言葉が続かない。
『ああ・・・そうだね。そうなんだけど・・・まあ、とりあえずそういうことだからさ。オレは具合が悪くて休みって、サディクに言っといて』
じゃあね、と電話は切れた。
おい、と思わず切れた電話に呼びかけるが、かといって何を言いかけたのか、自分でもよくわからなかった。
(おまえ・・・)
ロマーノは携帯電話のディスプレイを見つめる。
(本田の居場所・・・わかってんじゃないのか?)
いや、少なくとも。
予想はついているのではないだろうか。
だから、慌てる必要がない。
菊がいない。
そう聞いた時、ロマーノの頭にも真っ先に浮かんだ可能性。
おそらく、それが正解だろうと思っているのだ、アルフレッドも。
菊が、夜明けに家を抜けだして行く場所なんて、一つしかない。
翼の生えたボロボロのエヴァ。
ヘリから降りた人影が、近づいて行く。
―おまえを、待ってた。
ロマーノは、口の中に苦いものが広がっていくのを感じていた。
*
―菊がいなくなったっつったら、おまえもっと取り乱してもよさそうなもんなのに、なんか・・・。
ロマーノの言いにくそうな言葉。
アルフレッドは、パチンと携帯を折り畳む。
そして、トレイの上の包装紙やカップをゴミ箱に捨てて、ありがとうございました〜の言葉を背に聞きながら、ハンバーガーショップの外に出る。
食事をしている間に、空はさらに暗くなったようだった。
まだ午前中なのに、夕暮れのように暗い。
アルフレッドは歩き出した。
薄暗い街を歩きながら、アルフレッドは頭の中に色々な映像があぶくのように現れては消えていくのを感じていた。
―あの人を信じられないなら、エヴァに乗るのはおよしなさい。
人形のような冷たい顔に苛立ちを張りつかせて。
―なあ、菊。教えてあげただろ。こういう時はさ。
立ちつくしてぼろぼろと涙を流して。
―ええ、わかってます。・・・笑うんですよね。
そう言って・・・ゆっくりと笑みを浮かべて見せた。
ぐしゃぐしゃの泣き笑い。
―アルフレッドさん、アーサーさんが好きですか。
オレンジ色の光を受けた赤い海。
静かに微笑みながらそう言うと、優しいキスをした。
これで、私は貴方の元へ帰ってこれる、と。
その言葉の通り―。
「戻ってきたんだ」
アルフレッドは呟いた。
ふいに、朝の光に照らされた真っ白なテーブルが思い浮かぶ。
その上に並べられた鮭の切り身、出汁の入ってない味噌汁、白いご飯。
(また、泣いてた)
帰ってこれてよかったと。
そう言って。
戻ってきてほしいと願って。
帰って来られてよかったと泣くことができて。
なら、それでいいのだ。
アルフレッドにはわからない、厄介で難しいことが・・・きっとある。
多分、この菊の失踪も、その面倒なことの一つなんだろうけど。
―おまえを、待ってた。
ふいに、浮かんだ声に立ち止まる。
気がつけば、アルフレッドは小さな公園の前に立っていた。
色あせた遊具たち。
その中の一つ、土管を束ねたような遊具の中に。
小さな子どもの姿が浮かび上がる。
降ってきた雨に震えながら。
唇をかみしめて。
己よりももっと小さな、頼りない命を抱きしめていた。
8歳の、オレ。
飼ってはいけないと言われた子猫にこっそりと餌をやりに来て。
猫の鼓動が弱まっていることに気付いたのだ。
親は、育児放棄したのか、事故にでもあったのか。
兄弟たちも見当たらず、そのわたげのかたまりのようなかよわい生き物は。
その命をひっそりと終わらせようとしていた。
どうしていいか、わからなくて。
ただオレは、その命を抱きしめていることしかできなかった。
―アル。
過去の幻影に、もう一人の姿が加わる。
傘の影の下から、金色の髪が零れおちる。
―アル、どうした?
碧のまなざしが冷え切った心を柔らかく愛撫して。
泣きそうな顔で、胸に抱いた子猫を差し出した。
目を細めた彼は、猫にそっと触れた。かすかな鼓動と、冷えた身体は。
その命の終わりを示していた。
訴えるような子供の視線に、哀切のこもった視線を返す。
涙がこぼれそうになった青い瞳をふせた子供を、子猫ごと抱きあげて。
ここは寒いから帰ろう、と低く呟いた。
その夜、ひっそりと子猫は死んだ。
餌を持って行くと、よちよちと近寄ってきたその手足はもう動かない。
差し出せば、乳を吸うように指をなめたその暖かい舌も、もう二度と動かない。
タオルの上でぬいぐるみのように動かなくなった子猫をじっと見つめながら。
ぐるぐると、いろんなことを考えていた。
やがて。
背後から腕がのびてきて、子供の身体は暖かい場所にすっぽりと収まる。
その腕は安心感を与えてくれたけれど、髪に落とされるキスに、なんだかとても悲しくなった。
「もう12時回ってる。そろそろ寝ろよ」
「ねえ、アーサー」
「うん?」
オレは、ヒーローなんだぞ、といつも言ってた。
棒きれをもって、布をマント代わりにして。
でも。
「猫さん、死んじゃったんだね」
ヒーローは子猫一匹救えない。
死んじゃったんだね、という言葉は確認でしかなく。
アーサーも、そうだな、という言葉しか返せなかったろう。
そして、その後に彼は付け加えた。
「皆、死ぬ。・・・いつかな」
その言葉は、子供を怯えさせる。
普段なら、そんな言い方はしなかった。
小さな子供を傷つけるような言い方は、絶対に。
だから、彼もきっと、そうだ、少しばかり。
センチメンタルになっていたのだろう。
小さな命の終焉に。
抱きしめる彼の手は、むしろすがりつくようだったと思い出す。
小さな子供は、心のどこかで気付いてる。
自分はヒーローじゃなく、救いを待つ子猫の方なのだ、と。
無条件に小さいものを助けたい、という欲求と憐みの他に、いつの間にか子供は自分をその子猫に重ねていたのだろう。
軍の寮はペットを飼うことは許されていない。その後のネルフ専用寮に移った後なら可能だったかもしれないが。
そもそも、セカンドインパクト後、人間の方も生きていくのが困難になり、それより弱い生き物についてはおざなりにされた。どれだけたくさんのペットが捨てられたことかわからない。
が、窮屈な世界であるからこそ、余計に毛の生えた家族を心のよりどころにするものもいて、特に人類の友である猫や犬はやはり人類のそばに寄り添い続けていた。
だが、軍に復帰し、ネルフ設立の為に奔走するアーサーは激務であり、新米兵であるマシューも訓練で忙しかった。
8歳の子供には、自分のことをするだけで精いっぱいだったし、どう考えてもその頃その世帯に子猫を受け入れる余地はなかったのだ。
それは、子供にもわかっていた。
でも、と思わざるを得ない。
もし、子猫を受け入れることができていたら、こんな風に子猫は死なずに済んだろう。
受け入れることを選ばなかった、そのことが子猫の運命を左右した。
命の選別。
この世界ではそういうことが行われる、ということを。
子供は学び。
そして、それは自分も同じであったと気付くのだ。
もし、この手が自分を選ばなかったなら。
マシューが命がけで守ってくれていなかったら。
この子猫と同じように。
この世界の片隅で。
子供はひっそりと息絶えていたかもしれない。
そして、実際にそんな子供はごまんといたのだ。
両親を亡くし、一人で生きていくすべを持たぬ子供は。
まだ、この猫は運が良かったと言えるかもしれない。
最後の時を、暖かい場所で小さな手のぬくもりを感じながら逝くことができたのだから。
息絶えるまで撫でていた子供の手に、まだ残っている小さな命の感触。
アーサー、とまた子供は彼の名を呼ぶ。
もし、皆最後に死ぬなら。
その時は。
「オレが死ぬときは・・・そばにいてくれるかい?」
子猫にしたように。
最期の瞬間まで。
そっと触れていて。
子供の言葉に、頭をなでる手を止める。
その時の彼の表情をオレは知らない。
ただ、彼は軽く笑ったのだ。
「・・・オレのほうが年上なんだぞ。お前よりオレの方が先だろ」
その言葉は、やっぱり子供に与えるにはきつすぎる言葉で。
案の定、子供は泣きそうになったのだ。
彼が死ぬ。
そんなことは、子供にとって世界が終わることに等しかったのだから。
「やだよ。オレより先に死んじゃだめだ。オレが先に死ぬよ」
駄々をこねた子供に、彼は妙に確信に満ちた口調でこう言った。
「おまえは死なねえよ。死なさねえ・・・絶対にな」
さあ、もう寝るぞ。
そう言って、子供を抱き上げて立ち上がる。
時計の針が動くのに合わせて落ちていく瞼の裏で、死なないよりも、やっぱり死ぬときにこうやって抱きしめてもらえるほうがいいな、とそう子供は思ったのだ。
そして、次の日。
早朝に、街を見下ろす山の上に子猫を埋めた。
春になればたくさんの花が咲く場所だから。
寂しくはないだろう。
彼は、そう言った。
幻想が消えて。
古びた遊具たちの中に立ちつくす。
葬られたあの子猫の魂は、無事に天国にたどり着けただろうか。
土管の中で震えてる子猫。
それはまるで、人類のようだ、とふと思う。
誰かに選んでもらえるのを待っている子猫。
選ぶのは誰だろうか。
もしその命を選んでもらうことができなくても。
誰かが、その手を最期まで握っていてくれたらいいのに。
アルフレッドはそう思いながら、古い思い出の眠る場所を後にした。
*
「菊・・・」
家に中に入って、目に入った人影に、思わず声を上げると。
あれ、と菊が顔を上げた。
「アルフレッドさん、学校に行ってらしたんじゃなかったんですか」
そう言った彼は、スポーツバッグに手回り品を詰め込んでいるところだった。
その姿に、アルフレッドは喜びに変え、すぐに不安を覚える。
「君・・・何してるんだい?」
玄関で立ちつくしたまま、そう聞くと。
困ったように菊は口をつぐんだ。
「・・・本当は、もう少し片づけをしてから、と思ったんですけれど」
菊は立ち上がる。
そして、玄関へと向かってきた。
その姿は、なぜかどこかよそよそしい気がして、アルフレッドの中にどす黒いものが広がっていく。
なんだろう。
なんだろう、これは。
菊が、口を開く。
「アルフレッドさん、申し訳ありませんが、私はここを出ていこうと思っているんです」
え?
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
青い目に浮かんだ動揺に、菊は申し訳なさそうな顔をする。
は?とやがてアルフレッドは口元を笑うように歪める。
「は?今、なんて―」
「ええ、ですから」
菊は申し訳なさそうな顔をしながらも、まっすぐにこちらを見て。
そして、きっぱりと言った。
「菊―・・・」
「私は、ここを出ていきます」
冗談だろ?
そう心の中で呟いたアルフレッドに。
本田菊は静かに微笑んで見せた。
窓の外では、ようやく雨が降り始めていた。
*
ネルフ本部には、シャワー室も仮眠室もあり。
ついでに洗濯を行う場所もある。
何日帰らなくても、特段不便を覚えることはない。
だが、その日午後家に戻ろうと思ったのは、予感―というよりはもう少し積極的に予測―があったからだろう。
自分の行っていることがもたらす結果の一つとして。
だから、驚きはしなかった。
マンションの部屋の前にアルフレッドがうずくまっているのを発見した時も。
「・・・アル」
時計を見る。
午後3時半過ぎ。
学校ではようやく授業が終わった頃か。
ここにいるということは、サボったのだろう。
アルフレッドは顔を上げた。
衣服が濡れているのが気になった。
「入れよ。いつも言ってるだろ?傘は持ち歩けってな」
鍵をカギ穴に差し込む。がちゃりという音と共にロックがはずれる。
扉を開き、アルフレッドをまねく。
「アル」
名を呼ぶと、アルフレッドがようやく立ち上がり、素直に家の中へと入っていった。
椅子の上にカバンを置き、バスルームからタオルを持ってきてアルフレッドへと放る。
手の中に落ちてきたそれを、なんだかわからないようにじっと見つめていたアルフレッドは、ふと顔を上げた。
「アーサー」
「なんだ?それで身体拭け」
やかんを火にかける。紅茶を入れるつもりだった。暖かい紅茶を。
身体を拭け、と言ったのに、タオルを握り締めたまま、アルフレッドは動かない。
振り返ると、アルフレッドの視線が矢のように身体を貫いた。
「言いたいことがあるなら―・・」
「ああ、あるさ!だから、来たんだ!!」
言いかけると、アルフレッドがふいに激昂して叫んだ。
「アル」
「なあ、君、何をしたんだ?菊に何をしたんだよ!!」
菊。
目を細める。
「人聞きが悪いな。オレは何も―・・・」
「嘘なんてつかないでくれ!!オレは、君の口から嘘やごまかしなんて、聞きたくないんだ!」
アーサーは口をつぐんだ。
激情を叩きつけたアルフレッドは、次の瞬間顔を歪める。
ああ、泣いてしまう。
アルフレッドは、ぎゅっとタオルを握り締める。
「菊が・・・出ていくって言うんだぞ?出ていくも何も、オレが菊んちに転がり込んだのに・・・なんでって聞いても理由を教えてくれないんだ。おかしいじゃないか、オレを嫌いになったわけじゃない、でも一緒にいられない・・・そんなの」
眼のふちにたまった雫は。
しかし、ぎりぎりのところで零れはしなかった。

しゅんしゅんと。
やかんが音を立てはじめる。
「そんなの・・・おかしいだろ」
吐き捨てるように、アルフレッドが顔をそむけた。
「理由があるとしたら、一つしかない。・・・それは、君だ」
数秒のためらいの後、アルフレッドは何かを決意したように顔を上げ、きっぱりとそう言った。
「オレが・・・理由だと?」
上の空で口にしながら。
視線はじっとアルフレッドに注ぐ。
アルフレッドが出て行ってから。
ネルフで会うことなどは会ったが、こんな風に二人で向き合うことなど皆無に等しかった。
それは、ある意味都合がよくもあったのだが。
(ああ・・・)
心の中で呻く。
濡れた金色の髪。
泣きだしそうなのを必死にこらえている蒼い瞳。
少し背が伸びただろうか。
ほんの数日目を離しただけで。
少年は大きく変わっていく。
苗木が育つように。
美しく・・・変わっていく。
アル。
アルフレッドの中の葛藤が透けて見えるようだった。
それに向き合うことは、アルフレッドにとって大きな力を要するのだ。
「菊は・・・君が、好きだ。どんなことでも、君が言うことなら従うだろう。それが、たとえ死んでくれってことでも・・・きっと、菊は従う」
アルフレッドは少し疲労を覚えたように、テーブルによりかかった。
「なあ・・・アーサー。オレは・・・正直、どうしていいかわからないんだ。だけど・・・オレは菊を失いたくないんだよ」
アルフレッドの言葉の語尾が震える。
タオルを顔に持って行きながら、彼らしからぬ細い声で続けた。
「理由なんて・・・教えてくれなくたっていい。きっと教えてくれないだろうから・・・それは望まない。だけど、お願いだ、アーサー。オレから菊をとりあげないでくれよ・・・」
一瞬、嗚咽に似た詰まり。
「アーサー・・・お願いだから・・・」
言葉よりも。
その姿に、心が震えた。
タオルを顔に押し当てて、お願いだと哀願する姿が。
可哀想だ、と心の底から思い。
同時に。
ひどく。
愛しかった。
目の前で赤ん坊がむずがれば、抱きあげてあやしたいと思う。
そんな風に。
抱きしめてキスをして。
もう泣かなくていいと。
そう言ってやりたかった。
気がつくと。
目の前に立っていた。
顔に押し当てているバスタオルを優しく取り上げると、赤くなった目がこちらを見上げる。
タオルを広げて、ふわりと頭にかぶせ、無言で濡れた髪や肩、背中の水分を吸い取っていく。
アルフレッドは大人しく身体を拭かれている。
頭のどこかがじんと痺れていた。
エヴァに乗るとアルフレッドが言いだす前。
与える愛情をどこまでも受け入れてくれていた頃の甘やかな感情が。
身体の中に蘇る。
タオル越しに頬を包む。
目を閉じるアルフレッド。
アル。
オレのアルフレッド。
何よりも。
この地上の、何よりも。
「・・・おまえの願いを叶えてやることは・・・できない」
つかの間流れていた甘い空気が、その言葉に切り裂かれる。
「お前の言う通り、理由を教えてやることも・・・できない。菊は、もうお前と暮らすことはできない。だが、それ以外は今まで通りだ。学校にも行くし、エヴァに乗って闘いもする。変わらずお前の友達でいる。・・・それじゃ、ダメか?」
ベールのようにタオルをかぶったアルフレッドが顔を上げる。
神の前で誓いの言葉を口にする時のように。
どこか遠くを見るようにアーサーの顔を見つめたアルフレッドは、重い口を開いた。
「・・・触らないでくれないか」
アーサーは軽く目を見開く。ばさっとアルフレッドが乱暴にタオルを床に落とした。テーブルから離れ、アーサーから距離をとる。
ピーっとやかんが音を立てた。
はっとして振り返る。
コンロの火を止めようと動き出した時。
背中にアルフレッドの固い言葉があたった。
「・・・もし、オレが」
手を伸ばす。
「もうエヴァに乗らないと、そう言ったら」
カチリ、と音がして火が消えた。
「何もかも、元通りに・・・なるのかい?」
絞り出すような声を聞きながら。
アーサーは、振り返る。
アルフレッドの顔は、無表情と言ってよかった。
あれほど、くるくると明るく表情を変える少年が。
胸が痛み―さらに、与えなければならない言葉に痛みが増す。
「無理だ。もう、何もかも動き出した。いや―動き続けてるんだ、ずっと。オレが何もしなくても、世界は動いて行く。おまえの運命も、菊の運命も―オレの運命も、一つの流れの上を動いてる。その流れを止めることは誰にも出来ない。同じ場所には、何をしようとも、誰も―帰ることはできない」
もし、世界を止められるなら。
お前と出会ったあの場所で。
世界の時間を止めてしまうのに。
その青い瞳の中に永遠を閉じ込めて。
だが、それが不可能なら。
せめて。
アルフレッドの顔が再び歪み。
そして、何か言いかけて口を閉じた。
もう、無理だとわかったのだろう。
何も、変えることはできない。
失ったものを取り戻すことはできないのだと。
アルフレッドは黙って、玄関へと歩き出す。
無意識のうちに声を上げる。
「紅茶を、飲んでいかないか」
アルフレッドは小さく笑ったようだった。
なあ、と振り返らず、アルフレッドは話しかける。
「君にとって・・・オレは、なんだい?」
わずかに息を飲む。
だが、即座に言葉は唇から零れおちる。
考えるよりも先に、答えがはじき出される。
「すべてだ」
その言葉に。
アルフレッドは小さく呟く。
うそつき、と。
雨の中に飛び出して行くその後ろ姿に。
傘をさしかける資格が、今の自分にはないことを。
アーサーは痛いほどに思い知っていた。
*
ふと、気配を感じて立ち止まる。
普段この時間に公園にいるとすれば、アベックと決まっているが、小さな木立ちもないような公園では逢引もしづらい。
結果、昼間母親が束の間子供を遊ばせるだけの場所だった。
常夏になってしまった日本では、それも長い間ではないが。
セカンドインパクト前に作られた公園は、いまや色あせた遊具たちが静かに眠る場所だった。
そこに。
「アル・・・?おまえ、アルか・・・?」
だいぶ小ぶりになってきたものの、冷たい雨の中傘もささず、アルフレッドはブランコに腰かけていた。
その様子は、遠目に見ても尋常ではない。
―アルに連絡がつかんのや。
困った顔でそう言ったアントーニョの顔が浮かぶ。
その後ろで、ロマーノが落ちつかない様子で視線を彷徨わせており、菊はどこか不透明なまなざしで目を伏せていた。
これは、なにか。
あったとしか、思えない。
フランシスは、公園へと足を踏み入れた。
そういえば、初めて入った、と思う。
通勤途中なので、毎日隣を通っているわりに。
「おい、アルフレッド」
小走りに近づいて、声をかけると。
アルフレッドがゆっくりと顔を上げ―その憔悴ぶりにぎょっとする―弱い笑みを浮かべた。
「さすがだね、フランシス。こんなタイミングで現れるなんて、ヒーローみたいなんだぞ」
「そういうおまえのポジションは、完全に失恋したヒロインだぞ。こういう場合のセオリーとして、お兄さん、無理やりにでもお前を連れて帰るからね」
そう言って腕に手をかけると、案外すんなりとアルフレッドは立ち上がった。
傘の下にまねきいれると、ヒロインはやだなあ、とアルフレッドがぼやいた。
*
「ただいま、帰りました」
そう言ってマシューが玄関から入ると、部屋は暗いままで、ダイニングテーブルにアーサーが一人座って雨を眺めていた。
買い物袋を持ち直し、電気のスイッチを探る。
リビングに光が満ちる。
それは白々と、アーサーの背中を照らし出し、ついでにその疲労までをさらけ出させるようだった。
「お帰りになっていると聞いて・・・食材を買ってきたんです。食事を、作りますね」
アルフレッドがいない、とアントーニョが言っていた。床に落ちたバスタオルを拾い上げる。
だが、マシューは何も言わなかった。
「なあ、マシュー」
振り向かないままの、アーサーが呼びかけた。
はい、とスーパーの袋を持って冷蔵庫に向かいながら、マシューが応える。
「オレは、狂ってると思うか?」
雨の音が、強くなった気がした。
マシューは、冷蔵庫の扉を開ける。
―貴方が、狂っているかですって?
くすり、とひんやりとした冷気を浴びながら笑みをこぼした。
「ええ、思いますよ」
魚や野菜を空に近い冷蔵庫に入れていく。
アーサーが何も言わないので、マシューは言葉を続ける。
「貴方が何をしようとしているか、正直僕にはわかりません。ですが、狂っているんだろうとは思うんですよ」
ええ。
きっと。
狂っているのでしょう。
「でもね・・・」
冷蔵庫をしめる。
「何が正常で、何が異常なことなのか、もう僕にはわからないんです」
世界が崩れたあの時から。
海が真っ赤に染まったあの時から。
正しいことなんて、もう誰にもわからないのではないか?
「ただ、僕は貴方がすることはアルの為だってことを知ってる。貴方がただ・・・アルの為に生きてるんだって」
マシューは、アーサーの背中に向かって微笑んだ。
「それだけは知ってるんです、僕も」
アーサーは相変わらず振り向こうとはせず、ただ、肩が少しだけ下がった気がした。
「・・・ありがとう、マシュー」
「シチューを作りますね」
この雨で、気温も心も冷えたから。
暗闇に、雨音だけが響く。
*
「漫画は・・・どうするんだい?」
「ああ、いらなければ処分してしまってかまいませんよ。もう、必要ありませんから」
え、とアルフレッドは衝撃を受ける。
菊が何よりも大事にしていたあのコレクションを?
もう・・・必要ないって?
本当に最低限の荷物だけまとめた菊は、玄関へと向かう。
本当に出ていくつもりなのだと、ふいに実感がわいてぞっとする。
「ま、待ってくれよ!菊、出てくなんて・・・ここが君の家じゃないか、そんなのおかしいよ!」
必死で言いすがるアルフレッドに、菊が振り返る。
「この家は好きに使っていただいてかまいません。私がいなくても、ちゃんと野菜も食べてくださいね。なんなら、つくりに来てもいいですから・・・」
「なんで、そんな面倒なことするんだよ!!今まで通りここで一緒に暮らして、そんでオレの分も作ってくれればいいじゃないか!!」
思わず声を荒げる。
菊は少し目を伏せた。
「すいません、それはできません」
「だから、なんでだよ!!理由を教えてくれって、何度も言ってるじゃないか!」
「言えません。・・・これも、何度も申し上げましたよ」
アルフレッドの唇が震える。
「オレが・・・嫌いになったのかい?」
「まさか。アルフレッドさんを嫌いになるなんて・・・そんなことあるはずありませんよ」
アルフレッドの質問に、菊は答えてはくれる。が、その答えはアルフレッドの混乱を静めてくれない。むしろ、より一層深くするばかり。
「オレが・・・嫌いじゃないなら・・・なんで離れてくんだよ・・・オレは、やだよ・・・やなんだよ、菊に・・・一緒にいてほしいんだ、それだけなのに」
喉に何かが詰まったように言葉が途切れる。
菊は、憐みを湛えた眼でアルフレッドを見つめた。
「すいません。・・・そうだ、アルフレッドさん、一つだけ約束を果たします」
え?とアルフレッドが顔を上げる。
その頬を、菊の両手が包み込む。
ぐい、と菊の顔が近くなった。
そうして。
なにを、という前に。
唇が重なった。
(・・・・!)
そして、それは何度か交わした柔らかい唇を触れさせるだけのものではなく。
(・・・・っ)
戸惑うアルフレッドの唇を割って、入りこんでくる。
(舌・・・っ)
まるでそれだけが別の生き物のように、ぐいと入りこんできたそれは、怯えるアルフレッドの舌を絡み取り、縦横無尽に狭い口腔を暴れまわる。
「あ・・・ふ・・・っ」
息を吸うことがうまくできなくなり、酸欠状態になってあえぐアルフレッドの口の中で舌を絡ませ、唾液をすすり。
触れ合う粘膜の刺激が、何か別の感覚を引き出して行く。
その時。
アルフレッドは背中にぞっとしたものを感じる。
侵食型の使徒と戦った時の。
菊に似たものにキスされて。
そして―何かが入りこんできた時の―感覚。
身体の中を、蹂躙されるような。
自分でない何かに満たされるような―・・。
「ふ・・・あっ!」
どん、と気がつけば菊を突き飛ばしていた。
「大人のキスですよ。・・・知りたがっていたでしょう?」
菊は、微笑すら浮かべていた。
少し赤くなった唇を舐めて。
さようなら、アルフレッドさん。
と、そう言った。
*
ほら、と暖かいお茶を目の前に置いてやる。シャワーを浴びて、ルームウェアに着替えさせると、少し落ち着いたようで素直に口につけた。
「不思議な味だ」
「自家製ハーブティーだよ。心を落ち着かせるのに効果があるんだ。いい香りだろ?」
何か食う?と言うと、首を振って見せたが、同時にぐう、と腹が鳴った。
はは、とフランシスは笑ってショートエプロンをつける。
「リゾットでいいかな?いいチーズがあるんだよね」
言いながら、冷蔵庫を開ける。アルフレッドは何でもいいよ、と答えた。
それから1時間半ほどして。
リゾットとサラダ、そしてスープで腹を満たしたアルフレッドがほっと息をついた。
コーヒーを飲みながら、その様子を眺めていたフランシスがようやく質問を口にした。
「で?今宵のヒロインには、一体何があったのかな?」
カフェオレを口に持って行った「ヒロイン」は、居心地悪そうに身じろぎしたが―やがて、観念したように口を開いた。
「菊がね・・・」
「うん、菊ちゃんが?」
アルフレッドは少しためらって続きを口にする。
「出ていっちゃったんだ」
「出てく?なに?喧嘩でもしたわけ?」
フランシスの言葉に、アルフレッドは苦笑する。
「ロマーノと同じこと言うね。でも、違うよ。喧嘩なんてしてない。いっそ・・・喧嘩だったら、よかったんだけどね」
喧嘩なら、仲直りすることもできる。
「喧嘩じゃなくて・・・どうして、出ていくって話になったんだよ」
「それが、わかんないんだよね」
アルフレッドはやや自棄になった顔で、肩をすくめて見せた。
「オレを嫌いになったわけじゃない、だけど、もう一緒には住めない、理由は言えない。ただ、これだけさ」
「へえ・・・」
フランシスの中で、もう一人の自分が思考を始める。
菊が、アルフレッドの元を離れる理由。
だからね、とアルフレッドは呟く。
「オレは、アーサーのところに行ったんだ・・・菊を返してくれって、言いにさ」
フランシスは少しだけ眉を動かした。くす、と笑ったアルフレッドの笑みが痛々しく映る。
「馬鹿だよね、オレも。そんなことしたって意味ないって、知ってたんだよ。アーサーが・・・菊の行動の理由であったとしても・・・いや、多分そうなんだ、菊はきっとアーサーの為にオレのそばを離れるんだ、でも、だとしてもさ、そう決まった以上、菊は何があっても帰ってこない」
泣くだろうか、と思ったが、アルフレッドは涙をこぼさなかった。
フランシスは、じっと少年の顔を見つめる。
大人へと変わっていく寸前の。
ガラスのように脆いものを、その身の内に宿しているが故の輝き。
その脆いものが、今にもアルフレッドの中で砕けようとしているように見えた。
何かを失うこと。
そのことに、まだあまりに不慣れで。
「おまえがそう感じるなら・・・そうなんだろうな」
空になったコーヒーカップを置いてフランシスが言った。
「で、おまえはどうするつもりなんだ?」
フランシスの言葉に、アルフレッドは苦笑する。
「どうも・・・できないさ。今までと同じに、オレはエヴァに乗って戦うよ。菊は出ていくし、オレはそれを止められない。アーサーが何を考えてるかわからないのは、ずっと一緒だし」
フランシスは、胸ポケットから煙草を取り出して、一本口にくわえた。
「アーサーはおまえを愛してるよ」
その言葉に、アルフレッドの顔が歪んだ。
「君はいつもそういうけど、オレにはわからないよ。アーサーはオレのことを認めない。アーサーが必要としてるのは・・・菊なんだ」
苦しそうにそう言ったアルフレッドを見つめ、フランシスは一度咥えた煙草を火をつけずに口から離す。
そして、立ち上がるとアルフレッドの横へと移動した。
「アル」
呼ばれて顔を上げたアルフレッドの頭を、そのまま抱き寄せる。
「フランシス」
「全部理解しろったって、難しいのは当然だ。だけどな・・・これだけは信じてやれよ。あいつはおかしくなるほどお前を愛してる。何をしようとしてるか何を考えてるかはオレにもわからんよ。だけど、それだけは真実なんだ。それなのに、おまえがそれを疑うんじゃ、あいつも狂った甲斐がない」
シャツに顔を押し付けられたアルフレッドがくぐもった笑い声を上げた。
「なんだい、それ、狂った甲斐って」
「愛ってやつはな、なかなか一筋縄じゃいかないんだって。こういうご時世だと特にな。本当は、お互い好きでそばにいたくて、それだけでいいはずなんだけどな」
アルフレッドはフランシスの言葉を聞きながら、彼の背中に腕を回す。
「フランシスにも、難しいのかい?」
「ああ・・・難しいよ」
「難しいから・・・アントーニョをふったのかい?」
一瞬フランシスの動きが止まる。
「ああ・・・ロマーノが言ってたな。あいつ、オレにふられたって言ってたって」
「違うのかい?」
フランシスは、アルフレッドの頭をなでながら窓の方に視線を移す。
「あのなあ・・・ロマーノにも言ったんだけどさ、オレ、幸せだったんだよねえ。うん、ほんと、幸せだったんだよ、馬鹿みたいに。だから・・・なんだろうな」
「だから?」
「だから・・・怖くなって、手を離したんだ」
何もかも捨てることになる、という言葉に。
捨てて困るようなものなんて、持ってない、と答えた。
本当は。
持っているのが怖くなるほど、大切なものを持ってた。
その重みに耐えかねて、いらないんだと思い込んだ。
失うことが出来なくなる前に手放そうと思った。
もう、とっくに手遅れだったのに。
アルフレッドの頭をなでる。
「上手に誰かを愛するのって、本当に難しいよな。でもな・・・アーサーも菊も、奴らなりのやり方でお前を愛してる。だから、お前もお前なりのやり方であいつらを愛してやれ。本当に上手に愛するなんて、神様以外にゃできないんだ。ならさ、人間の出来る精一杯のやり方で愛するしかないだろ?」
間違えるし、後悔もするだろう。
でも、どんなに回り道をしようとも。
「ありがとう・・・オレ、フランシスのことも好きだぞ。ロマーノも、アントーニョも。あ、ついでにギルベルトも」
「うん、ありがとう。おまえは強い子だ」
そういって、ぽん、と頭を軽く叩いた。
「泊まっていけよ」
そういうと、いいのかい?とアルフレッドがこちらを向いた。
「全然いいよ。一人暮らしだしな。あ、でも、アントーニョには連絡させてくれないか?心配してたからな」
ロマーノも心配してるだろう。
「・・・うん・・・アーサーには・・・」
「ま、そっちはいいんじゃない?まあ、こっそりマシューちゃんにでも連絡しとくよ。お前がちゃんと明日訓練に行けば問題ないだろ」
アルフレッドは、ほっとした顔をした。
「ありがとう」
「まあ、あれだ。お前が俺んちに泊まるとか言ったら、銃持って乗り込んで来かねないからな、あいつ」
人のこと犯罪者扱いしてるからなあ、とぶつぶつ言いながら、戸棚から新しい歯ブラシを下ろす。
「ほい、歯ブラシ。そこのソファ、ベッドになるから。今、タオルケット持ってくるよ」
あ、うん、と言いながらアルフレッドは歯を磨きにバスルームに向かう。
戻ってきたときには、ソファはベッドに早変わりしていた。
「いいね、これ」
「インテリアショップで一目ぼれしてな。ほれ、おやすみ」
ぽん、と枕代わりのクッションを叩く。
アルフレッドが横になると、立ち上がり電気を消す。
そして、じゃあな、おやすみ、と立ち去ろうとした時。
ズボンのはしを掴まれた。
「うん?」
「あのさ・・・もうちょっとだけ、ここにいてくれないか?」
思わずアルフレッドを見下ろす。フランシスはアルフレッドを覗き込むようにしゃがみ込んだ。
「失意のヒロインに手を出すのは、あて馬っぽくてあれなんだけどなあ」
「手出してくれなんて、頼んでないぞ」
「そうだったかも」
言いながら、フランシスはソファの端に腰をおろし、ぽんぽんとタオルケットの上から叩いた。
「あやしてくれとも言ってないんだぞ」
「あらら?そう聴こえたけど?」
アルフレッドの身体をあやすようにゆっくりとさすりながら、言う。
「おまえはねえ、本当は甘えるのが下手だからなあ」
アルフレッドの我儘は計算ずくだ。
明日になれば、なんでもないように笑顔をつくるだろう。
ロマーノのように不安や不満を顔に出せるタイプの方が、実は甘え上手かもしれない。
周りがその辛さに気づくことができるから。
戦うことと同じように器用なアルフレッドは、自分の辛さを隠すことにも長けている。
そんなことない、とおそらく言おうとしてやめたらしいアルフレッドは代わりにこう呟いた。
「・・・こんな風にさ・・・雨が降ってる夜に・・・ずっと子猫をさすってたことがあったんだ・・・もう弱ってて・・・助からないってわかってた。本当は飼ってあげたかった。でも、オレはまだ小さくて、どうしてあげることもできなかった・・・」
唐突な子猫の話に、フランシスは黙って耳を傾ける。
心の奥底の泥をかき出すように、不器用にとぎれとぎれにアルフレッドは言葉を紡ぐ。
「猫は・・・死んじゃったんだ。オレは哀しくて・・・アーサーにしがみついてたんだけど、その時、思ったんだよ。その子猫とオレは・・・あんまり変わらないんじゃないかって。親はいなくてさ、オレには、たまたま拾ってくれる人がいた。守ってくれる人がいた。だけど、あいつにはいなかったんだ。だから、死んだ。たった一匹で・・・」
拾われることも出来なかった子供。
嫌な記憶が蘇りそうになって、少しだけ目を閉じる。
「たった一匹で逝ったんじゃないだろ。・・・おまえがいた。おまえが、その子猫によりそってさすってやってたんだろ」
それだけで、その子猫はどれほど救われたことだろう。
そうだね・・・と呟いて、アルフレッドはまた口を開いた。
「アーサーはその時・・・皆死ぬんだって言ってた。オレは怖くなってさ・・・それなら、せめて死ぬときにはこうやってアーサーにそばにいてほしいってそう思ったんだよ。・・・そしたら、アーサーはおまえは死なせないって」
くす、とアルフレッドは闇の中で笑った。
「そう言うんだ。皆死ぬって、言ったばっかりだったのにね。無茶言うなって思ったよ。子供だったけど。・・・オレは・・・死ぬの、怖いけど・・・だけど・・・」
声が途切れていく。そろそろ眠りの神がその御手にアルフレッドを抱き上げようとしている。
「一人のほうが・・・怖いなって・・・そう、思ったんだ・・・・」
吐息のようなため息を残して。
アルフレッドは眠りについた。
金色の髪をそっと額から払い。
フランシスは、少年を見下ろす。
そして、おそらく、と考える。
その子猫の死に、アルフレッド以上にアーサーは怯えていたのだろう、と。
逝く時に手を握っていてほしいのは、あいつのほうだろう。
恐怖が、より具体的にあいつには見えていた。
その心を壊しかけたほどに。
握り締める手を見つけたから、ようやくあいつはギリギリの淵から戻ってきた。
だがきっと、今も。
怯えている。
その子猫のようにおまえに看取られて終わることを切望しながらも、お前を守るため闘いを続けているのだろう。
フランシスは立ち上がり、自分の寝室へと向かう。
そして、サイドボードの中からUSBメモリを取り出して、手の中で弄んだ。
たった一人きりのアーサーの闘い。
フランス支部から持ち出したネブカサルの鍵。
エヴァの胎内から帰還し、驚異的な回復力を得た菊の身体。
―おそらく、菊がアルフレッドから離れたのはそのせいだろう。
だとすればやはり、アーサーは承知なのだ。
菊のことは、アーサーのシナリオの一部・・・。
ゼーレが知りたがっているアーサー・カークランドの真の目的。
タブラ・ラサ。
USBメモリに入っていた情報。
エヴァの作成方法に見えるが、おそらくそうではない。
もっと小さい、なじみのあるもの。
たとえば、人体―。
・・・禁断の果実、か。
それをもいだ結果、人類は楽園を失った。
オレは、何を失うだろう。
だけど。
「・・・行くっきゃ、ないだろ」
真実を、手に入れる為に。
フランシスは、USBメモリを握り締めた。
次号へ続く
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