明け方の第3新東京市。
 朝もやの中を、一匹の薄汚れた野良犬がふらふらと歩いていた。
 そして。
 木立の中で、きらりと光る赤いものに目を止める。
 犬は興をそそられたのか、何か空腹を満たせるものだと思ったのか、のそのそと近づいてきて草をかきわけた。
 すると。
 現れたのは、拳大ほどの赤い球体。
 犬は首をかしげると、鼻を近づけて匂いをかいだり、舐めたりしていたが。
 やがて。
 球体を咥えると、街のほうへと再び歩きはじめた。
 犬の口の中で。
 赤い球体は、目覚めるように赤く光った。

「今、部屋が散らかってますので…」
「全然かまわないって」
「そうは言われましても、客用の布団の用意もないですし」
「床でも寝れるから大丈夫だぞ。明日俺の布団、持ってくるし」
「では、明日からいらしていただければ…」
「やだ。俺はあの家には、もう帰らないんだぞ。そう決めたんだ」
(どうしてそれ、同居しようとしている私に一言もなく決めるんでしょうねえ、この人は)
 ややいらっとしたのが顔に出ないよう気をつけながら(出たとしても、目の前の相手は気にしやしないであろうことはわかってはいるが)、はあ、とこっそりひとつため息をついた。
 アルフレッドが菊と暮らす、と突然の宣言をした後は大変だった。
 親代わりのアーサーが卒倒しそうになり、俺は許さないだのなんだと言いだし、アルフレッドと大喧嘩。そこにいらいらしたアントーニョが「いい加減に子離れせいや。うざいで、おまえ」と余計なことを言ったがために、火に油状態。最終的に、オレの何がいけなんだとまるで別れ際のフラレ男のような台詞を吐いてアルフレッドにすがりつかんばかりの総司令を蹴飛ばすようにして、じゃあ、帰るぞ、菊!と菊の襟首をひっつかんでアルフレッドはネルフ本部を飛び出したのだ。
(ああ、明日のことを考えると頭が痛いですよ…)
 アルフレッドの言葉や行動は何時だってその場の思いつきで、大体突拍子がないのだが。
 今回はなかなかにインパクトが大きい。
 けれど、きっとこれは。
 きまぐれでは、ないだろう。
 それだけは、なんとなくわかっていた。
 もう帰らない。
 これはアルフレッドの本気の本気なのだ。
 菊は覚悟を決めた。
「・・・わかりました。では、少しだけそこのコンビニで待っていていただけますか。20分くらいで戻ります」
「片づけかい?気を使わなくていいって言ってるのに…」
「いいですから!アイスとコーラ買っていいですから。ジャンプ読んでていいですから。なんだったら、サンデーも読んでていいですから」
 いつにない菊の迫力に、アルフレッドはさすがに押し負けた。
「わ、わかったんだぞ。ワンピース読んで待ってる」
「いい子です」
 にこりと笑みを浮かべると、菊がさっと身をひるがえした。
 菊のマンションは、すぐそこである。
 あ、それから、と菊はアルフレッドを振り返る。
「私に気を使うなと言うのは、息をするなというのと同じですから」
 では、と菊はダッシュでマンションへと向かっていった。
 夕闇せまる路上に残されたアルフレッドは、ぽりぽりと頭をかくと。
 ワンピースワンピース、と呟きながら煌々と明るいコンビニの入り口へと向かった。

 20分きっかりで、なにやらぜいぜいと息をつきながら菊が戻ってきた。
「やあ」
「準備はできました。うちに行きましょう」
 うん、と嬉しそうにアルフレッドがうなずく。そして、コーラとアイスを買って、二人はコンビニを出て菊のマンションへと向かった。
 空には、星が瞬き始めている。
「なあ、菊」
「はい」
 エレベーターに乗りながら、アルフレッドが話しかける。
「聞かないんだな、オレがなんで家を飛び出してきたかって」
 アルフレッドの言葉に、菊はちらりとエレベーターの回数表示を見るふりをしている彼の横顔を見る。
「大体わかります。聞く必要はありませんよ」
 今度はアルフレッドが思わず菊の横顔を見る。
「ごめん」
「何を謝る必要があるんです?」
 階数表示が上がっていく。
「じゃあ」
 アルフレッドが前を向いたまま、口を開く。
 ちん、と音がしてエレベーターが開いた。
「ありがとう」
 エレベーターの開ボタンを押しながら。
 菊は、口元にかすかな笑みを浮かべた。

「すごい綺麗じゃないか!ほんとに20分で片づけたのかい?」
 リビングの扉を開けて、アルフレッドが両手を広げる。
「ええ、まあ。昨日作った煮物がありますから、魚を焼いてお味噌汁をつくって、夕食にしましょう」
 キッチンへと向かおうとした菊は、ふと視線を感じて振り返る。
 すると、アルフレッドが瞳をキラキラさせて菊を見つめていた。
「な、なんです?」
「菊、すごいんだぞ!」
 言うなり、犬のようにアルフレッドが飛びついてきた。
「わわわっ」
「菊、よろしくな」
 アルフレッドの高い体温を感じる。
 誰かとこんなふうに触れ合ったのは初めてだ。
 そう思いながら。
 はい、と答える。
「よろしく、アルフレッドさん」
 多分、こういうのも悪くない。

「じゃあ、こちらをアルフレッドさんの部屋にします。ほとんど使っていない部屋ですので、自由にしていいですよ。あ、それから」
 食事を終えて、交代で風呂に入った後、菊がアルフレッドに部屋を案内する。
 14歳の一人暮らしにしては、あまりに豪華な部屋は、もちろんネルフの支給である。
 菊は、突き当たりの部屋を指さす。
「あの部屋は開けないでくださいね。一緒に暮らすにあたっては、色々なルールを作る必要があると思います。その第一番目です。守れますね?アルフレッドさん」
 菊の言葉に、突き当たりの部屋のドアを見つめていたアルフレッドが、菊に向き直って、うん、とうなずく。
「守るんだぞ」
 菊は微笑む。
 そして、では、おやすみなさい、というときびすを返した。
 アルフレッドは、開けることを禁じられた部屋の扉をもう一度ちらりと見て。
 それから、自分の部屋の中に入った。

 その日の真夜中。
 何かの音で目を覚ました。
 カーテンの隙間から細く漏れる月光が、フローリングに影を落とす。
 目をこすったアルフレッドが耳を澄ますと、音はどうやら扉を開けた音。
(菊・・・?)
 トイレかな。
 そう思うと、自分もトイレに行きたいような気がしてきた。
 廊下に出る。
 すると。
「あれ・・・?」
 薄く光が漏れているあの部屋は。
 菊が入ってはいけないと言った部屋。
(菊がいるのか…?なんで、こんな真夜中に)
 ふと。
 昔、アーサーが教えてくれた童話が頭に浮かぶ。
 青髭。
 それは、怖い物語だった。
 青い髭を持つ貴族のもとへ嫁入りした少女が主人公。
 優しい夫、豪華な生活。
 満足していた彼女だが、夫の遠征中に彼との約束を破ってしまう。
 それは、開けてはいけない扉を開けたこと。
 開いてはいけない青い扉。
 その向こうに隠されていたものは。
 ぞくっと背中に冷気が走った。
 菊の秘密。
 いつも控えめに微笑む菊は、どこか謎めいていて。
 知りたい、という衝動がふいに胸の中に突きあげる。
(ちょっとだけ・・・)
 覗くくらいなら。
 さっきのドアの音。
 菊は、あの部屋から出て行ったはずだ。
 ちょっとのぞいて、すぐに部屋に戻れば。
 きっとわからない―。
 気がつくと。
 アルフレッドは、ドアのノブに手をかけていた。
 きい、と扉が開く。
「こ、これって・・・!」
 扉を開いて中をのぞいたアルフレッドは、思わず目を見開く。
 その時。

「見ましたね」

 背中にかけられた声に。
 アルフレッドはびくんと飛び上がる。
「あ、菊・・・」
 青髭の奥方は、きっとこんな気持ちだったのだろう。
 そう思いながら。
 アルフレッドは振り返った。

「おーっす、おはよーさん」
「あ、おはようございます。アントーニョさん」
 本部に入ってきたアントーニョに、マシューが笑みを浮かべて挨拶を返す。
 アントーニョはマシューの向こう側の指令席に座り、ぶつぶつと何かを呟いているアーサーに目を止め、眉をひそめる。
「なんやねん、あいつ。朝からどす黒いオーラ発してるやんか。超うっとおしいわ」
 はあ、とマシューがため息をつく。
「昨日からずっとああで・・・まあ、アルが出てっちゃったから、仕方ないんですけどね」
「やんちゃな弟持つと大変やな、マシュー」
「アルは弟じゃないですって。いとこですよ、いとこ」
 何度目かの訂正をすると、そうやっけ、とアントーニョが頭をかく。そして、よせばいいのにアーサーへと近づいていく。
「おい、暗いで」
 耳を澄ますと、アルアルアルアル俺の何がいけないんだ何が気に入らないんだ何で出て行くんだ・・・とぶつぶつ繰り返している。
「うわっキモっ」
 鳥肌をたてたアントーニョの存在に、アーサーはようやく気付く。
「なんだ、おまえか・・・」
 はあ、と処刑間近の囚人のようなため息を漏らす。
「お、おまえなあ・・・そんな世界が終ったような顔せんでも。アルは男の子なんやで。ひとり立ちもしたい年齢やろ。見守ってやりや」
「間違いが・・・」 
 遠い目で、アーサーが呟く。
「は?」
「間違いが起こったら、どうするんだ・・・」
 間違い。
 その言葉の意味するものへとようやく思考が繋がったアントーニョが目を点にする。
「はああああっ!?何言うてんねん、おまえは!?ないない、マジない。ほんま、引くわ〜。アル、早うおまえんち出てよかったんちゃう?お前の近くにおる方が危ない気ぃしてきたわ」
 激しく顔の前で手を振るアントーニョ。その背中に、ぽてっと何かが当たった。
 あ?と振り返ると、話題の渦中の人物、アルフレッドがアントーニョの背中につっこんでいた。
「アル?」
「あ〜おはようなんだぞ〜」
 ぼんやりした明らかに寝不足な顔で、アルフレッドが顔を上げてアントーニョに挨拶する。
 今日は土曜日なので、学校は休みである。朝から訓練をするために、パイロットもネルフへと出勤してくるのだ。
 おう、はよ、と答えると、アルフレッドはふらふらとオペレーター用に椅子に座るとコンソールの上にぱたっとうつぶせた。
「あ、アル?どないしたん?」
 アントーニョが尋ねると、うーと呻きながら、アルが切れ切れに応えた。
「菊…(の漫画が)激しくて…ピー(の修正が)終わらなくて…寝たかったけど、菊が許してくれなくて・・・」
 アルフレッドの言葉に、アントーニョとアーサーが一瞬にしてムンクになる。
「うわー!」
「ピーって、なんやああああっ」
 むにゃ・・・とアルフレッドが眠りに落ちる。
「おや、いつになく仲がよろしいですね」
 背後からかけられた声に、がっしりと手を取り合っていたアントーニョとアーサーが青ざめた顔で同時に振り返る。
 すると、そこにはやはりクマを作った菊が立っていた。しかし、アルフレッドと異なり、満足した顔をしている。
「き、菊・・・なんか、機嫌よさげやな?」
 あわあわしてるアーサーの横で、かろうじてアントーニョが口を開く。
 すると、菊はにこりと微笑んだ。
「ええ、そりゃあもう。(漫画が)うまいこといきましたからね。アルフレッドさんも、最初は無理とかきついとか眠いとか騒いでましたけど、最終的には慣れてくださって、私の要求にも完璧に応えてくれるようになりましたし」
 アルフレッドさんとの同居は正解だったかもしれませんね、と言いながら、菊は完全に石化した二人の横を通り過ぎる。
 そして、アルフレッドの肩を叩く。
「ほら、アルフレッドさん。着替えに行きますよ」
 む〜眠いんだぞ〜と目をこするアルフレッドの手を引いて、菊は奥へと消えていく。
 そうして、二人の姿が消えた後。
 アントーニョの隣で、アーサーがばたっとひっくり返った。
「あ、アーサー!しっかりしぃや!」
 アントーニョの慌てふためく声を聞きながら、菊が振り返る。
「なんでしょね、あれ。雪山ごっこでしょうか」
「さあね。知らないんだぞ」
 はふ、とアルフレッドはあくびを漏らした。

                

「ここがロッカールームね。ここで着替えをしてくれる?荷物も専用ロッカーに入れて。ロマーノ君の指紋で開くようになってるから。301番だよ」
 はあ、とトーリスの言葉にうなずく。
 あの後、自分の名前はロヴィーノだと主張してはみたのだが、全員の関心はすっかりアルフレッドの家出宣言に移ってしまっており、諸悪の根源ギルベルトの「あ?そうだっけか?なんか、ロヴィーノって言いにくいじゃねえか。おまえ、今日からロマーノな」というどうしようもない一言で、皆当然のように「ロマーノ」と呼ぶようになってしまったのだった。
「着替えたら、奥の扉を通ればトレーニングルームに一直線だから。ギルベルトさんが待ってるはずだよ」
 じゃあ、頑張ってね、と手を振る優しげな容貌の青年に頭を下げ、ロマーノとなってしまった少年はロッカールームの扉を開けた。
(ねみぃ・・・)
 昨日は真新しいマンションに行ってみたものの、新しい生活となにより使徒との戦いという突然の非日常に体全体が興奮してしまい、なかなか寝付くことができなかった。
 ようやくまどろむことができたのは、朝方だ。
「眠いんだぞ〜」
 ロマーノの気持ちを代弁するような言葉が、ロッカールームの奥から聞こえてきた。
(あの声は…)
 アルフレッドだ。
 覗き込むと、アルフレッドがプラグスーツの手元のボタンを押すところだった。ぷしゅ、と空気が抜けてスーツが体にぴたりと付着する。
「おや、ロマーノさんじゃないですか。おはようございます」
「お、おう」
 アルフレッドの向こうから、菊がひょいと顔を出して挨拶する。
 答えながら、ロマーノは二人に並んだ。
 そして、301のロッカーを探して指を押し当てる。中には、ロマーノ用のプラグスーツが入っていた。
「トイレは、あちらにあります。スーツを着る前に行っておいた方がいいですよ」
 気を回す菊の隣で、あ〜おはよ〜とあくびを噛み殺しながら、アルフレッドが服をハンガーにつるす。
「眠そうだな、おまえら」
「ロマーノも人のこと言えないんだぞ」
「よくお休みになれなかったようですね。まあ、仕方ありません。いきなり戦場に出たんですからね」
 菊の言葉に、ロマーノは彼をしげしげと見る。
「ところで、おまえ、体は平気なのか?」
 彼の右目はまだ眼帯に包まれている。訓練などしていいのだろうか。
「ええ、大丈夫ですよ。昨日はちょっと出血してしまいましたけど」
「別に無理して訓練しなくてもいいのに。アーサーもアントーニョもギルもそう言ってたじゃないか」
 アルフレッドが口をとがらせる。
「心配しなくても、オレがいるから大丈夫なんだぞ。オレが使徒をやっつけて、皆を守るからさ」
 アルフレッドの言葉に、菊は静かに笑みを浮かべる。
「そういうわけにはいきませんよ。アルフレッドさん。私もエヴァのパイロットですからね」
 シャツのボタンに手をかけようとしていたロマーノの手が一瞬止まる。
 ―心配しなくても、オレがいるから大丈夫なんだぞ。オレが使徒をやっつけて、皆を守るからさ。
 オレがいるから。
 昨日の戦いが蘇る。
 いや、ロマーノのそれは戦い、ではない。
 戦ったのは、アルフレッドだ。
(俺は、一方的にやられただけだ・・・)
 当たり前だ、と心の中で誰かが言う。
 エヴァの乗り方なんかしらない。
 マルドック機関が勝手に選んだだけ。
 俺は、一般人なんだから、と。
 しかし、別の声が言う。
 ―アルフレッドの言う通りじゃないか。
 こいつに任せておけばいい。
 やりたい奴がやればいい。
 あんな怖い想いをして、オレが戦う必要なんて…。
「ロマーノさん?」
 動きが止まっていたロマーノに、菊が声をかける。
 あ、ああ、ちょっとぼんやりしてた、とさっさとロマーノはシャツを脱いだ。
 頭を切り替えよう、として、ロマーノは気になっていたことを口に出す。
「そういえば、おまえ、総司令と暮らしてたのか?兄貴とか?副司令はそっくりだから身内だろうが、あの人とはあんまり似てないな」
 すると、目がしょぼしょぼする、とこすっていたアルフレッドがむっとした顔でロマーノを見る。
「違うよ。両方お兄ちゃんなんかじゃない。マシューは従兄だけどね」
 怪訝な顔をしたロマーノに、少し息をついてアルフレッドが説明する。
「ロマーノもそうだって聞いたけど、俺とマシューもセカンドインパクトで大量に生まれた孤児なんだよ。で、施設で育ったんだけど、15になってマシューが成人して軍に入ったんだ。で、オレを引き取ってくれた。オレはその時まだ7歳だったんだけどね。それから、なんでかたまたまアーサーと会ったんだよ。オレがあちこち歩き回って、入っちゃいけないところに入っちゃったらしいんだけど、よく覚えてない。それがきっかけなのかなんなのか、マシューとアーサーに縁ができたみたいでさ、気が付いたらアーサーにくっつくみたいな形でマシューはネルフの副責任者さ。私生活でも色々とアーサーが世話焼いてくれて、いつの間にか三人で住んでたんだ」
 へーえ、とロマーノはうなずく。ずいぶん個人的なつながりが人事に反映されるもんなんだな、というのが話を聞いた印象だった。
「おまえも指令とのつながりでパイロットに?いや、それはねえか。なんかあの人、おまえをエヴァに乗せたくないみたいだったしな」
 弐号機は出さない、とアントーニョと言いあっていたアーサーの姿を思い出す。
 親馬鹿も極まれり、という感じだった。
 アルフレッドが口をへの字に曲げる。
「オレが選ばれたのは実力だよ。当然だろ。アーサーは認めてくれないけどさ」
 菊がアルフレッドの向こうで小さく肩をすくめる。
(ああ、なるほどな)
 ロマーノは心の中で納得する。
 アルフレッドが家を出たのは、つまりはそういうことか。
 自分を認めてくれないアーサーへの反発・・・。
(わかりやすい奴)
 過保護な親代わりをうざがってんのかと思いきや。
「さあ、ロマーノさんの準備も出来たようですし、行きましょうか」
 菊が言い、おう、とロマーノはロッカーを閉めた。

 モニターに映し出される三人の少年の映像。
 左から、修理中の零号機の中の菊、初号機の中のロマーノ、そして最後に弐号機の中のアルフレッド。
 羊水のような赤い液体に満たされたエヴァの胎内で、三人の少年は目を閉じている。
「どうや?」
 背後から声をかけられて、モニターと計器の動きを見つめていたギルベルトが振り返る。
「なんか、またアーサーと騒いでなかったか?おまえ」
 あーとアントーニョが遠い目をする。
「忘れることにしたんや、ほっといてんか」
 ギルベルトは肩をすくめる。そして、モニターに目を移した。
「やっぱり、ロマーノはすげえよ。驚異のシンクロ率だ。あいかわらずアルはムラがあるけどな。本人が乗り気かどうかで大きくずれが出る。ただ、戦闘がはじまると跳ね上がるが。根っからの戦士って感じだな」
「14歳で根っからの戦士ってのも、複雑やけどな・・・」
 近づいてきたアントーニョがギルベルトの肩越しに計器を覗き込む。確かに、ロマーノのシンクロ率は群を抜いている。
「じゃあ、ヒーローだ。本人もそう言ってっしな」
「子供なんや。子供を前線に出さなあかんのは、ホンマたまらんわ。いっそオレが乗れたらええんやけどな〜」
 アントーニョの言葉に、はっはっは、とギルベルトが笑う。
「それは無理だ。なぜかエヴァには14歳の子供しか乗れねえんだからな。サバ読み過ぎだろ」
「わかっとるわい!」
「まあ・・・でも、あれだ」
 少し声のトーンを変えて、ギルベルトがぎし、と背もたれに寄り掛かる。
「ん?」
「おまえはパイロットにはなれねーが、世界中からたった一人選ばれた作戦指揮官なんだ。おまえが、あいつら勝たせてやらねえとな」
 アカデミー時代。
 若干19歳の青年の書いた一つの論文が世界の研究者及び軍関係者の話題を引っさらった。
 「地球防衛論」。
 妄想好きな中学生のつけそうな幼稚なタイトルのそれは、しかし世界最高峰のレベルのものだった。
 いまだにそれを超える者を生み出せたものはおらず、それまで無名だった学生は数年後人類の防衛の最前線を任せられることになる。
 アカデミーの成績は並の上、しかも科目によって大きなムラがあるアントーニョ・フェルナンデス・カリエドがネルフの前線指揮官になったのは、そういう経緯からであった。 
 目を瞬いたアントーニョは、おもむろに顔の横で両手を組むと、裏声で言った。
「まあwギルちゃんったら、口説くのがうまくなってw」
「キモ。死んでよし」
 ギルベルトはスピーカーのボタンを押す。
「よし、測定終了。エヴァから出ていいぞ。次はシュミレーションだ」
 画面の中で、三人の少年が目を開いた。 

『画面に実際の使徒からデータを取った敵が現れる。そいつに照準を合わせて、スイッチを押せ』
 敵・・・。
 ロマーノの鳩尾あたりに、ぐにゃりという嫌な痛みが走る。
 使徒。
 昨日の記憶がよみがえる。
(あんなのが出てくるのか…)
 岩が頭の上に乗ってでもいるように重い。
『なるべく引きつけて引き金を引け。ちゃんと核を狙うんだぞ。核はわかるようにマーキングされてる。時間は10分。なるべく多く敵を倒せよ』
 ギルベルトの声がして、画面が立ち上がる。
 エヴァの体内を模したトレーニング用のマシン。
 完全にエヴァから見た映像と同じだ。
 目の前に広がるのは、第三新東京市。
 目眩がするような、デジャブ。
 指が震えた。
(だ、大丈夫だ。大丈夫。これは映像なんだ…)
 しかし。
 画面の端に現われたそれ―使徒の姿に、ロマーノは息をのむ。
「うわああああっ」
 ふいに訪れた恐慌。
 気がつけば、ロマーノは引き金を立て続けに引いていた。
 ばばばばば、と目の前に爆発が起き、白い煙が視界を覆う。
『ばかっ。それじゃ、前が見えねーじゃ・・・』
 ギルベルトの声が聞こえた瞬間。
 使徒の触手が煙の中からひゅっと飛び出て。
 ロマーノが目を見開くと同時に。
 画面が黒く消えた。
 そして、現れる赤い『訓練終了』の文字。
 画面が切り替わり、ギルベルトの顔が現れる。
『俺の言うこと聞いてたか?なるべく引きつけて、核を狙って撃てっつったろ』
 ロマーノは心臓がどきどきと音を立てるのを聞きながら、で、でも、とやっと声を出す。
 目の前で、残像のように触手が蠢いている。 
『でもじゃねえよ、シュミレーションごときでそれでどうすんだ』
 ギルベルトが呆れたように首をかしげる。
『実戦だったら、死んでんぞ』
 死―。
 ふいに。
 昨日感じた生々しい死の気配を思い出す。
 間違いなく、すぐ隣にあったロマーノの死。
 アルフレッドが間に合わなければ。
 確実に死んでいた―。
『ちょっと休んでろ。アルたちが終わって、30分休憩して、二回目だ』
 そう言うと。
 ぷつ、と回線が切れて、画面が暗くなった。
 原始のような暗闇の中で。
 ロマーノは、くそ、と吐き捨てた。

「やあ、先に上がってたのかい」
 ベンチに座ってドリンクを飲んでいたロマーノが顔を上げる。
 アルフレッドが意気揚々と引き上げてくるところだった。
「32体。新記録なんだぞっ」
 ばちっと器用にウィンクしてみせる。
 32。
 ロマーノは、ごくっとドリンクを呑みこんだ。
「オレ、ちょっとトイレ行ってくる」
 そう言うと、アルフレッドが奥へと歩き出す。その後ろ姿をぼんやりと見つめていると、菊が話しかけてきた。
「どうされました?元気がないですね」
 ロマーノはいらっとしてストローを噛んだ。
「・・・やなんだよ。なんで・・・オレなんだ。オレなんて、あいつみたいに器用でもねえし、あんたみたいに覚悟もねえ。オレじゃなくたっていいじゃないか。オレの代わりなんて…」
 ロマーノはぎゅっと膝の上で拳を握りしめる。
 そうだ、オレじゃなくても…。
「それなら」
 菊の声。
「私だって同じですよ」
 ロマーノは思わず顔を上げる。
 ひどく感情に乏しい顔で、菊が見下ろしていた。
「私の代わりなど、いくらでもいますから」
「本田・・・?」
 何と呼ぼうか一瞬迷って、それから名字で呼んだ。
 本田菊という人間の魂が、どこか希薄になっているような感覚。よくできた人形のような非人間性。
 その皮膚は、ゴムなのではないか。
 その目は、ガラスなのでは―。
 馬鹿な。
「ロマーノは、エヴァに乗るのが嫌なのかい?」
 声が聞こえたのだろう。トイレに行くのを中断して戻ってきたアルフレッドの声に、びくっとしてロマーノは彼のほうを見る。
 馬鹿にした様子も、非難の色も一切なく。
 アルフレッドが口を開く。
「じゃあ、やめればいいんじゃないか?」
 アルフレッドが小首を傾げる。
「いいぞ?オレがいるから」
 オレがいるから。
「オレが、皆を守るよ」
 ぐ、とロマーノは顔をゆがめる。そして、くしゃ、と空になった紙コップを握り締めると。
 立ち上がって、二人の間を割ってロッカールームのほうへと向かった。
 残された二人は、どちらともなく顔を見合わせる。 
 菊は、小さく肩をすくめた。

「ギル、あれは言いすぎやろ」
 ギルベルトの様子を黙って見ていたアントーニョがモニターが消えた後、苦言を呈す。
 それを予想していたように、ギルベルトがぎし、と伸びをした。
「言うと思ったぜ。甘えよ。遊びじゃねんだ。ここで甘やかして、結果はどうなる?戦場で死ぬだけだ」
 アントーニョは渋い顔で黙りこむ。
 正論ではある。
 わかっているのだ。
 だが、ロマーノはメンタルが弱い。
 使命感に支えられ、淡々と戦闘をこなす菊。
 自分の技量に絶対の自信を持って、ヒーローを自称するアルフレッド。
 この二人と同等に見ていいものか。
「心配やなあ・・・」
「よっ。おかん。俺達も休憩だ。コーヒーでも、飲みに行こうぜ」
 ギルベルトは立ち上がると、ぽんと友人の肩を叩いた。
 二人が連れだって休憩室に向かう途中で、菊と出会った。
「よお、お疲れ」
 アントーニョが片手を上げる。
 すると、あの、と菊が口を開く。
「ん?どないした?」
 ええ・・・と歯切れが悪い菊。そこにひょこりとアルフレッドが顔を出す。
「ロマーノが逃亡したんだぞ」
 は?と目が点になるアントーニョ。
 気まずそうに菊が口を開く。
「ロッカールームにロマーノさんのプラグスーツが脱ぎすてられてました。荷物もなくなってましたし…」
 ギルベルトが目の上に手を載せる。
「あの馬鹿…」
「追いかけるわ!」
 言うが早いか、アントーニョが走り出していた。
 それを三人が見守る。
 アルフレッドがドリンクをすする、ずず、という音だけが休憩室に響いた。

(やってらんねえよ)
 ロマーノは人の姿の乏しい電車の中にいた。
 電車の振動が心地よく体を揺する。
 耳につっこんだイヤホンで周りを隔絶する。
 繭のように自分を包み込んで。
 嫌なことから自分を守るのだ。
 窓から見えるのは、見たこともない風景。
 街を少し離れると、途端に瓦礫と緑ばかりの風景になる。
 畑が広がっていた。
 いつまでもずっと夏の空。
 地を這う植物。
 赤い海。
 世界の終りの。
 先の世界。
 ―なんで。
 ぼんやりと、ロマーノは思う。
 ―エヴァに乗るんだ。
 使徒が来るからだ。
 誰かが言う。
 ―使徒がきちゃ、いけないのか。
 街が破壊される。
 たくさんの人が死ぬ。
 世界が、滅ぶ。
 みーんみーん・・・
 耳をつく蝉の声。
 ―なんで・・・。
 ロマーノは背もたれに深くもたれて、窓を見上げる。
 ―滅んじゃ、いけないんだ。
 守るだけの価値なんて、この世界にあるだろうか。
 家族も、いない。
 愛された記憶も、ない。
 何かをうまくできた記憶も。
 ―あら、ロヴィーノ君はまだ終わってないのね。
 ロマーノは顔を伏せる。
 誰かに必要とされた記憶も。
 目を閉じた。
 世界が終って、何がいけないんだ。
 人間なんて、地球にとっても有害なガンみたいなものじゃないか。
 セカンドインパクトが起きなくたって、世界には人が溢れかえって世界中の資源を使いつくし、空も海も汚し、地球を食いつぶそうとしていた。
 どの本を見たって、そう書いてある。
 人が半分になった?
 結構じゃないか。
 それが適正な数値ってもんじゃないか。
 そもそも、天敵がいなかったのがいけないんだ。
 天敵のいない生物は生態系を破壊する。
 神と言う存在がもしいるなら。
 気づいたのではないだろうか。
 人間と言う存在には、天敵が必要だと。
 扉が開く。
 ふらりと外へ出た。
 風が頬をなでる。
 見知らぬ駅。
 無人の小さな駅だった。
 畑の中にぽつんとある駅。
 
 そういえば。

 アルフレッドと菊―あいつらは何のために戦ってるんだろう。
 
 誰の為に。
 何のために。

 ふと、そう思った。

 スポーツカーを走らせる。
 モニターには、点が一つ。ロマーノだ。
 ロマーノに渡したIDカード。律儀に持って行ってるらしい。そういうところに思い当たらないあたり、子供だ。
 ―子供を前線に出さなあかんのは、ホンマたまらんわ。
 追いついて。
 何というかは、全然思いつかない。
 ロマーノの力が必要だった。
 それは確かだが。
 アーサーなら。
 使い物にならないなら、他の候補と取り替えろ、と、すげなく言うだろう。
 ロマーノが選ばれた理由であるシンクロ率の高さ。
 あれは大きなポイントだが、あそこまでいかなくてもそこそこのシンクロ率の子供なら他にもいる。
 中には、ロマーノのように不安定でない子供もいるだろう。
 自ら進んで戦おうとするアルフレッドのような子供も。
 だが。
 もし、ここでロマーノが逃げ出したら。
(一生、逃げ続けることになる)
 アントーニョはハンドルを握り締める。
 絶対にそうなる。
 できれば。
 知ってほしかった。
 一度体中の力を振り絞って立ち上がることができれば、その後人は容易に倒れなくなるのだと。
「ロマーノ…」
 呟いた時だった。
 通信が入る。
「?」
 回線を開くと、ギルベルトの声が耳に飛び込んできた。
『アントーニョ!すぐ戻れ』
 え?と、怪訝な顔をする。
『使徒だ。しかも、昨日の奴。どうやら、倒し切れてなかったらしい。今、解析班からも連絡が来たけどな。あれの核は二重なんだ。アルが破壊した核の中に真の核ともいうべきもっと小さな核があった形跡がある。おそらくそれから再生したんだ』
 アントーニョが目を見開く。サイドミラーに愕然とした己の顔が映る。
「なん・・・やて」
『というわけだ、今アルが出撃した。戻って来い、アントーニョ』
 アントーニョは唇を噛むと、前を向いた。
「戻らん」
『はあ?』
 ギルベルトが通信の向こう側で盛大に顔をしかめる。
『何言ってんだ、おまえ。今度こそアーサーに殺されるぞ』
 アントーニョはハンドルを切る。頭が目まぐるしく回転していた。
「使徒の形状は昨日と同じなんか」
『あ、ああ。ただ、赤い核の部分がむき出しになってるな。仮面がなくなってる。ただ、それはダミーでその中に真の核が埋め込まれてるんだろうが…』
「なら、やっぱりすぐには戻れへん。アルだけじゃ、どの道無理や。ロマーノを連れ戻す」
『・・・本気か?アーサーになんて言うんだ』
 はん、とアントーニョが笑う。
「現場責任者は誰や?」
『・・・おまえ』
 しぶしぶとギルベルトが答える。
「アルには悪いが、なんとか戻るまでもたせろと伝えてくれ。あと、菊が飛び出さんよう押さえてくれや」
『簡単に言ってくれるぜ』
 呆れたようにそう言うと、早く戻れよ、と言って通信が切れた。
「おおきに」
 アントーニョが呟く。そして、顔を上げた。
 国道から見える見渡す限りの畑。
 そのあぜ道を、ぽつんと一人の少年が歩いて行く。
 
 ロマーノ。

 アントーニョは叫びだしそうな想いで、車を寄せて外に飛び出した。

「ロマーノオオオオオオオオォッ」
 突然響いた大声に、びくっとして振り返ると。
 あぜ道を、アントーニョが突進してくるところだった。
「うわああああああっ」
 ロマーノは条件反射で逃げ出した。
「待ちやあああああっ」
「ついてくんなあああああっ」
 その時、茂みに靴が引っ掛かった。すぽんと靴が逃げて転がるが、後ろに迫るアントーニョを見て、靴を拾うのを断念する。
「あ、おまえ、靴!ちょ、待ちぃ」
 アントーニョがあぜ道から畑に転がっていった靴を畑に踏み入って拾い上げた。
 片方靴下で走り続けるロマーノを、アントーニョが片方の靴を持って追いかける。
 あんだ?と、農家のおじさんが顔を上げる。
「止まれ!話し聞けや、ロマーノ!つか、足早いな、おい!」
「俺はもう嫌だっつってんだよ!エヴァになんか、のらねえ!痛いのも怖いのもごめんなんだよ!」
 全力疾走しながら、二人は汗だくで言葉を交わし合う。
「使徒が!使徒が現れたんや!」
 え、とロマーノが少しスピードを落とす。だが、止まりはしなかった。
「昨日の奴や!倒し切れてなくて、再生したらしい。今、アルが出とる!けど・・・あいつだけじゃ、無理や!」
 ロマーノのスピードがさらに落ちた。
 あいつだけじゃ・・・無理?
 昨日の鮮やかな攻撃が脳裏をよぎる。あれで無理だってんなら…。
「あいつで無理なら…オレがいたって、変わらねえじゃねえか。オレがエヴァに乗ったって、一歩歩くのが精一杯なんだぞ」
 惨めな思いをするだけだ。
 いや、それだけならいい。ヘタしたら、今度こそ死ぬだろう。
 ようやく止まったロマーノの前で、アントーニョはぜいぜいと息をつく。
「じ、十代には敵わんな。あんな」
 アントーニョが顔を上げる。ロマーノの顔を見据えた。
「引き金を引いてくれるだけでええねん」
 ロマーノが眉をひそめる。
「一歩も歩かんでもええ。アルがつっこんで本物の核を探り当てるために、あいつの動きを止める必要がどうしてもある。昨日はロマーノにあいつの注意が向いてた。だから、ふいをつけたんや。四方にのびるあの触手は厄介や。アルがなんぼ優秀でも、一人であいつの懐に踏み込むのは無理やで。もう一人。どうしても、もう一人必要なんや」
 きゅっとロマーノが唇を噛む。
 もう一人。
 引き金を…引くだけ。
「あのなあ、ロマーノ」
 アントーニョがまっすぐにロマーノの目を見る。
「一歩、歩くのが精いっぱいやてゆうけどな。それだって、オレにはできへんねん。オレにできるのは、作戦を立てて指示を与えるだけや。実際にはおまえらに戦ってもらわな、どうにもならんねん」
 碧の瞳が、ロマーノの心を射すくめる。
 肩に手が乗せられる。暖かい。
「どれだけの人間の中から選ばれたと思うとる?お前にしか、できんのや」
 代わりなんか、いないんだ。
 そう言っているように、聞えた。
 ロマーノの心がざわざわとざわめく。
 そして、ぽろりと言葉がこぼれおちた。
「オレ…あんたに、必要なのか」
 アントーニョは、一瞬目を瞬く。
 それから、大きく笑みを作った。
「俺だけやない。皆に必要や。人類皆にな!」
 ぐ、と息が詰まった。うまく、息が吸えなかった。なんだか、空が青すぎる気がして。目をこすった。
「なんやあ、泣くなやあ」
 あはは、とアントーニョがロマーノの頭をなでる。そして、ほれ、靴履かせてやる、肩つかまり、とロマーノの手を自分の肩に導く。
 そして、しゃがみこむと、ロマーノのどろだらけになった靴下を脱がせると、靴を履かせた。
 アントーニョの頭を見下ろしながら。
 なんだか、涙がこみあげる。
 片方の靴。
 拾って追いかけてくるのは、確か王子様のはずだ。
 灰かぶり姫と馬鹿にされてた少女を暗闇から連れ出す手。
 顔を上げる。
 アントーニョが微笑む。
 だけど。
 この王子様が連れていくのは、王宮じゃなく戦場。
「…アルと同じことはできねえぞ」
 いいんだな、と念を押すと。
「しなくてええよ」
 アントーニョが立ち上がる。
 そして、ん、と手を差し出した。
 その手を見つめる。
 ―お迎えにあがりました。シンデレラ。
 ガラスの靴は、パスポート。
 天国への?地獄への?
 そんなの、わかりきってる。
 だけど。
 
 この手をとってみよう。

 ロマーノは手を伸ばした。

 

              

              

「アントーニョ!」
「アントーニョさん!」
 足早に本部に入るアントーニョに、全員が腰を浮かす。
「待たせたな!アルはまだ無事やな?すぐに作戦を決行する!ロマーノ、準備」
 おう、とロマーノが緊張した面持ちで走り出そうとする。が、そこに冷ややかな声が降ってきた。
「逃げ出した奴が、何しに戻ってきた」
 指令席から、見下ろす碧の双眸。
 総司令官、アーサー・カークランド。
 ロマーノは、ぐっと息を詰まらせる。
 けれど、息を吸って見上げる。
「・・・もう、逃げねえ。俺は」
 ロマーノは震える心を叱咤する。アントーニョがロマーノの背中を見つめている。
「エヴァのパイロットだ」
 ギルベルトがにやりと笑い、アントーニョの肩を叩いた。
「たいしたもんだ、おまえも」
 アントーニョはただ笑って見せた。
 アーサーは、ふん、と鼻を鳴らすと、指令席に戻った。
 ロマーノはほっと胸をなでおろす。そして、ロッカールームへと走った。
 その後ろ姿を見送って、アントーニョが指定席へと向かう。
「作戦は帰りながら、無線で説明した通りや。ロマーノがエヴァ初号機で稲木山から射撃を行う。射撃を行った衝撃で使徒が攻撃の手を緩めたところを、アルが攻撃。ただし、5秒が勝負や。5秒で核に到達できなければ、一旦引く。7秒でチャージが終わるはずやから、アルが引いたところでロマーノがもう一発。ただ、この攻撃がなりたつのはおそらく3度までや。一度撃たれれば、使徒は初号機に向かう。使徒の移動速度から見て、初号機到達まで射撃三回分が限度や。ロマーノは自力で移動するのはまだ無理やから、三度でうまくいかなければ、アルがサポートして一度撤退する」
 名付けて、とばん、とコンソールを叩く。
「ぴんぽんダッシュ作戦や」
 一瞬。
 本部が静まりかえる。
「センスねええええっ!」
 スピーカーから流れていたアントーニョの声に、ロッカールームに走っていたロマーノが思わず突っ込みを入れる。
 本部では、トーリスがはは、と苦笑した。
「アントーニョさん、ネーミングセンスは皆無なんですよねえ」
「え?なんで?なんで皆引いとるん?」
 きょろきょろと周りを見回すアントーニョ。
「えーよくない?よくない、これ?」
「あーいいから、黙れ」
 半眼でギルベルトが答えた。

「あ・・・」
 ロッカールームの前で、ロマーノが減速する。本田菊が立っていた。
 無表情に近い顔で、ロマーノを見つめる。
「えっと・・・あの、オレ」
 菊は、深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
 ロマーノはきゅっと口を引き結ぶ。胸の奥が熱くなった。
「わかった」
 言うと。
 ロマーノは菊の横を通り過ぎる。
 ロマーノが通り過ぎた後で、菊は顔を上げる。
 そして、少しだけ微笑んだ。

 プラグスーツを着込む。
 初号機へと向かう。
 羊水が抜かれた異形の巨人。
 不気味な、オレの兵器。
『上に出たら、同時にライフルを射出する。ヘリで山の上まで運ぶから、そこで銃を構えろ。いいな?』
 ギルベルトの声。
 エントリープラグの中に入りながら、了解、と答える。
 よし、というギルベルトの声。
『射出』
 声と同時に、かかるG。今度は心構えがあるから、耐えられる。たとえるなら、フリーフォールで上に引き上げられるような感覚か。
 上がるにつれ、どきどきと高まっていく鼓動。
 空が、見えた。
 遠く。
 海の方で、使徒とエヴァ弐号機が戦っているのが見える。
 相変わらず見事な動き。
 けれど。
(俺のせいで…相当長時間の戦いを強いられてるはずだ)
 あんな恐ろしいものと。
 いくらあいつだって、疲労するだろう。
 一度でも気を抜けば、命にかかわるのだ。
 がこん、と音がしてビルかと思ったところから巨大なライフルが現れる。
 それを手に取った。ずっしりと重たい。
 ババババ…と音がして、見上げると軍用ヘリが上を飛んでいる。
 降りてきた綱梯子をつかむと、体が浮き上がった。
『エヴァ初号機回収。稲木山山頂に移動します』
 ヘリからの声。
 ロマーノは、弐号機と使徒を見つめている。

『用意はええか、ロマーノ』
 アントーニョの声。
「ああ」
 答える。
 エヴァは山頂に横たわり、使徒に狙いをつけていた。
『よし。なら、一旦アルは使徒から離れろ。そして、ロマーノのライフルが当たったところで飛びこめ。いいな、5秒だ。それで無理なら、引け』
『わかったんだぞ!』
 アルフレッドの声が聞こえる。そして。
『頼むよ、ロマーノ!』
 頼む。
「・・・おう」
 ようやっと、それだけ答えた。
『照準だけつけろ。訓練でやったのと同じだ。っていっても、おまえ、ほとんどやってねえけどな・・・赤い丸が使徒の核の上に来た時に引き金を引け。いいな?落ちつけよ』
 ギルベルトの声。皆の声が、体に染み込んで行く。
 アルフレッドが使徒を蹴り飛ばして、一旦離れる。
『今や!』
 アントーニョの声に、ロマーノは赤い丸を追う。
 核の上に来た時に…核の上に来た時に…。
 ―今だ!
 引き金を引いた。
 どおおんっ
 きゅいん、と一瞬にして飛んで行った光の閃光は、使徒の触手の間を縫って核に向かって吸い込まれていく。
 おおおおおお、と地鳴りのような声を使徒があげた。
 アルフレッドが動いている。
 触手を2、3本切り裂いて。
 核へと向かう。
 ぐっとナイフを突き立てると。
 赤い液体が吹き出るが。
『まだや!浅い!離れろ、アル!』
 はっとして、ライフルを構える。失敗。後、二回。
『くそっ』
 アルフレッドの声。
『焦るな!後二回ある』
 ギルベルトの声。
 7秒。
 チャージ完了。
『いけ!』
 はっと気がつくと、使徒が向かってくるところだった。
 は、は、と息がはずむ。
『ロマーノ!』
 アントーニョの声が、耳に入ってくる。
(―ああ)
 わかってるよ。
 赤い丸が核の上にぴたりとはまる。
「くらえええええっ!」
 引き金を引いた。
 どおおおおんっ!
 再び。
 触手が宙を哀れに舞う。
 アルが突っ込む。
 さきほどの傷をえぐるように、奥へと手を伸ばす。
『あった!核だ!』
 アルフレッドの声。手が伸びる。しかし、その前に。
 触手の一本が弐号機の首に絡みつく。
『が・・・はっ』
「アルフレッド!」
 思わず叫ぶ。アルフレッドはナイフで触手を切り落とし、自力で抜けだす。
 しかし。
『最後の一回や!もう、核は見えとる!絶対いけるで!』
 ざわついていた触手が狙いを定める。
 こちらに。
 く、と息をのむ。歯の根が合わない。
 手足がしびれる。
 触手だらけの生き物が、赤い核を晒してだらだらと赤い溶液を垂れ流しながら、ぞぞぞぞぞと恐るべきスピードで近づいてくる様は、生理的な嫌悪感をもたらす。全身に立つ鳥肌。
「ば・・けものがあああああっ」
 がたんがたん。
 電車の音。
 地球の害虫だろうがなんだろうが。
 ―人類なんて、滅びても…。
「いいわけねえだろうがあああっ!」
 カチ、と引き金を引く。
 閃光が轟いた。
 山のふもとまで近づいた使徒がうめき声を上げる。
 そこに。
 弐号機がつっこみ。
 核の中に手を突っ込む。
 再び。
 触手がざわつきだす。
「間にあえ!」
『アル!』
 たくさんの声が、回線を交差する。
 弐号機の手が。
 核を握った。
「やった!」
 が。
 無数の触手が、弐号機に絡みつく。
『・・・くっ』
「アル!」
 苦しげな声。だが、弐号機の手は、核を離さない。ぎりぎりと締めあげられながら。
『あああああああっ』
 雄叫びと共に。
 ぐしゃ、と弐号機の手が核を握りつぶした。
 ぷ、と核に亀裂が入って。
 ぷしゅーと弐号機の指の間から赤い液体が噴き出した。
 核は、完全に消滅し。
 ぼこぼことあぶくのように盛り上がった瘤から赤い液体を噴き出し。
 使徒は、溶けた。
『は・・・あ、やったん、だぞ』
 がく、と尻もちをつく弐号機。
 それを見ながら。
「は・・・はは・・・」
 思わず漏れる乾いた笑い。
「は・・・ははは・・・ははははは・・・・」
『ようやった!アル!ロマーノ!って、ロマーノ?』
 アントーニョの声を聞きながら。
「あはははははははははははっ」
 笑いが。
 止まらなかった。

 その日オレは、初めて世界とやらを救ったらしかった。

 休んでていいぞ、と言われたので。
 ネルフの仮眠室を借りて、爆睡した。
 昨日寝不足だったこともあって、すぐに眠りに落ちた。
 色々な夢を見た気がするが、目覚めた時にはすべて忘れていた。
 とんとん、というノックの音で目を覚ます。
 18時。
 使徒と戦ったのは午前中のはずだから、午後いっぱい寝ていたことになる。
 とんとんとん、とノックが激しくなる。
「わーわかった、起きる、起きるよ」
 ロマーノが頭をかいて起き上がる。立ち上がってドアを開けると。
「ロマーノ、いくで!」
「うわっ」
 視界を埋め尽くしたのは、大量の赤いバラ。
 アントーニョが大きなバラの花束をドアの隙間から差し入れてきたのだ。
「な、なんだこれ!?」
「なんだって、花束や」
「いや、それはわかるけど。なんで花束なんだよってことだよ、オレが聞きたいのは」
 え〜とアントーニョが首をかしげる。
「お祝いには抱えきれないほどの赤いバラの花束やって、昔言われたんやけどなあ」
 なんだ、その気障な発想。
「まあ、ええ。行こうや、ロマーノ」
 アントーニョが手を引っ張る。
「な、なんだよ、どこにだよ」
「オレんちや」
 はあ?とロマーノは引きずられていく。 
 車に乗せられる。
「なんだよ、説明しろよ。オレ、寝ぐせついてるし・・・」
「あ?そのくるん、寝ぐせやったん?」
「ば、ばかやろー。これはちげーよ」
「いくで〜」
 ぎゅん、とスポーツカーが走り出す。ようやく太陽が傾きかけていた。

「ロマーノ君、おめでとう〜!」
「歓迎するよ、ロマーノ君!」
「や、やりましたね、ロマーノさん!すごいです!」
「まずは一発、先勝祝いだな」
「おめでとう〜」
 アントーニョのマンションの扉を開けると、クラッカーの音とテープの歓迎を受けた。
 テープまみれで花束を抱いて呆然とするロマーノに、ネルフメンバーが微笑みかける。
「な、なんだ、これ・・・」
「なんだこれ、っておまえの歓迎パーティーやん。ほれ、上がり」
 アントーニョが背中を押す。あ、うん、と上がると、中にはすっかりパーティーの準備ができていた。
 垂れ幕には、「ロマーノ歓迎&初勝利お祝い会」と書かれている。
 テーブルの上には、色とりどりの料理。
「ほれほれ、座り」
 アントーニョが真ん中の席に導く。ぐるりと見渡すと、トーリス、エド、ライヴィス、マシュー、ギルベルト。そして。
「げ、総司令・・・」
「お、ちゃんと来たんやな。えらいえらい」
 アントーニョが腰に手を当てて、椅子の上で足を組んでいるアーサーの方に体を倒す。
「マシューに連れてこられたんだ!」
「アルと本田君が一緒に来て、ってお願いしたからね。一発ですよ」
 マシューが横であっさり内実を暴露する。
「マシュー!」
「ケーキができたんだぞ〜w」
 アルフレッドの声がして、エプロンをしたアルフレッドがキッチンから現れた。なんかうしろで総司令がぐはっとかいって出血している気がするが、気にしないことにする。 
 しかし、アルフレッドのエプロンよりも、ロマーノの目は彼の持ってきたケーキに釘づけになった。
「おま・・・っ、それ、なんて、色・・・!」
「他の色にしましょうと主張しては見たのですが…」
 横でなぜかかっぽう着を着ている菊が、額に手をあてる。
「なんでだい?この色が一番おいしそうじゃないか」
 アルフレッドの作ったケーキは、見事な青色をしていた。
「ま、まあええ。見た目はともかく味はきっと・・・ええやろ。二人も座りいや」
 二人はエプロンとかっぽう着を脱いで席に着く。
 一同にシャンパンが行きわたると、アルフレッドが立ち上がった。
「さて!じゃあ、これからロマーノの歓迎会を始めるで!あ、子供はシャンパンは一杯だけやからな〜」
 アントーニョがロマーノを見つめる。
「ロマーノ、今日はほんまにおおきにな。おまえがいてくれて、よかったわ」
 その隣で、菊が「ありがとうございました」と頭を下げる。
 そして。
「これからも、援護は任せたんだぞ!オレがヒーローらしく活躍できるようにね!」
 そう言いながら、隣の席のアルフレッドがばんとロマーノの背中を叩いた。
 アントーニョがグラスを高々と上げる。

「ロマーノと人類の明るい未来に!乾杯!」

 乾杯、と声が唱和する。
 
 シャンパンに口をつけながら。
 ほんのちょっと。
 ほんのちょっとだけ。
 ここでやっていけるかもしれない、と。
 ロマーノは思った。

「じゃあな」
「あと、頼みます」
「お休み〜」 
「またね」
 え?とロマーノはぽかんと目を見張る。
 祝宴が進み、そろそろお開き、となったところで。
 ロマーノ以外の全員がロマーノを残して帰ったのだった。
 いや、正確にはロマーノ以外の全員、ではない。
 ソファで酔いつぶれている家主以外は、である。
「なななななんで、オレだけ残されてんだよ!」
 ある程度片付いてはいるものの(主にトーリスとマシューと菊がやった)、まだ洗い物などが若干残っている。
 ソファでは、アントーニョが気持ちよさそうにひっくり返っている。
 それをちらりと見、しゃあねえなあ、と頭をかいてキッチンに向かう。
 そして。
 つる、と滑った。
「うわっ」
 思わず。テーブルクロスをつかむ。
(しまっ)
 ぐあっしゃあああああん。
 思ったときには遅かった。床に皿やグラスの残骸。
 あわわわわ、とロマーノはぐるぐるするが。
 ぷつん、と何かが切れる。
(逃げよう)
 荷物をまとめて、玄関へと向かう。
 ノブに手をかけた時だった。
 ん〜といううめき声。
 そして。
「どこ行くねん、ロマーノ」
 びくーんと心臓が跳ね上がる。
「ちちち違うからな!皿割ったから、気まずくて逃げようとかしてねえから!」
 わたわたするロマーノに、あん?と頭をかいてアントーニョが起き上がる。
「何言うとんねん。どこに行こうとしてるんや?」
「え、いや、どこって、家だけど」
「お前の家はここやぞ」
 は?と、目が点になる。
「何言って…」
「あ?言ってへんかったっけ?皆には言ったんやけどな。オレ、おまえと住むことにしたわ。まゆげの許可も一応とったしな」
 え、えええええええっ
 思わず白眼になる。
「な、なんでそういうことになるんだよ!?」
「ええやん。オレ、一人で寂しいし。一緒に暮らそう、な?」
 ソファの上で、ごろんと猫のように転がって、頬杖をついてこちらを見るアントーニョ。
 ロマーノはアントーニョを見つめる。
 こいつと、一緒に。
 なあ、とアントーニョが目を細める。
「今日、楽しなかった?一人で飯食うより、皆のが美味しいねん。オレ、結構料理うまいやろ?なあ、一緒に暮らそうや?」
 ロマーノは玄関に立ちつくす。
 確かに。
 意外なほどにうまい料理。
 アルフレッドの青いケーキも、わりとうまくて。
 楽し・・・かった、かな。
 ロマーノの表情の変化を見守っていたアントーニョがにこりと微笑んだ。
「明日、荷物とりにいこな」
 その笑顔を見ながら、ロマーノは一度履きかけた靴を再び脱いだ。

 転がった運動靴。

 オレの、ガラスの靴。



 新しい生活が、幕を開けた。

  
 

 次号へ続く
 


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