「可哀想に」

 長い話の後―二人の間に流れた深い海のような沈黙の後。
 その海の底から引き揚げた言葉は、そんな音の連なりだった。
 その憐みの言葉が何に向けられたものか。
 もはや、わからなかった。
 だが、ただ黙って銃を再び持ち上げた男の瞳を見つめながら。
 フランシスは、ずっとポケットの中で弄んでいたソレの―スイッチを入れた。

『ん・・・アーサー・・・?』

 突如流れたその声に、アーサーは目に見えてたじろいだ。
 この場にいるはずもない、アルフレッドの声に。
 その隙をついて、フランシスは走り出す。
 以前ボイスレコーダーに戯れに録音しておいたアルフレッドの寝起きの言葉。
 アーサーを動揺させようとしたら、これ以上のものはない。
 が。
「待て!」
 廊下に走り出ようとした瞬間、肩と腿のあたりに衝撃と熱が走った。

 ああ、撃たれたな、と。

 どこか夢の中のような気持で。

 フランシスは、冷静にそう思った。

「は?」
 出した声は、自分でも間の抜けたものだった。
「なん・・・やって?今、なんて言ったんや」
 語尾に行くにつれ、声が震えていく。ネルフの事務職員。こんな性質の悪い冗談を言うような義理も動機もない。
 だから、真実なのだと。
 こんな滅茶苦茶で暴力的で滑稽で無味乾燥な。
 この通告が―真実なのだと。
 頭のどこかが納得しかけた瞬間、すうっと身体の芯が冷えていく。
 戸惑った顔の事務職員が、気の毒そうな顔でその言葉を繰り返す。

「フランシス・ボヌフォワさんは・・・昨日何者かに襲われ・・・亡くなられました」

 亡くなられた。
 ・・・死んだ、と。

 あいつが?

「・・・っざっけんなよ。なんだよ、なんなんだよ、それ。なんなんだよ、おい!」
 言葉を失くしたアントーニョの隣で、一人の男の怒気が爆発する。
「おい、コラ!」 
 職員の胸ぐらをつかもうとしたギルベルトの腕を、アントーニョはぎゅっと押さえる。
「アン・・・っ」
「ギル・・・よせや」
 
 自分の声が、遠い。
 ずきずきと―頭のどこかが傷みだす。
 考えることが仕事なのに、崩壊を恐れた脳がそれを拒否し始める。
 ―アントーニョ。
 つい、この間。
 あいつは、オレの名を呼んだんじゃなかったか。

「・・・遺体・・・面会、出来るか」
 押さえた声で、やっとそう言うと。
 すると、事務職員はさらに困った顔になり。
「いえ・・・それが、もう既に解剖に回され・・・あの、この件は監察部が警察との間で処理すると・・・」
 限界に達した怒りは、白い眩い光に似て。
 視界を真っ白に塗りつぶす。
「・・・アントーニョ」
 掴んだ手に気づかぬうちに力が入っていたらしく、ギルベルトが顔をしかめる。
 赤い瞳が、こちらを見つめてる。
 どこか、怯えた顔で。
 アントーニョは、ギルベルトから手を離すとそのままきびすを返して歩き出した。
「おい、アントーニョ!」
 慌ててギルベルトが追いかけてくる。
「どこに行くつもりだ!?」
 ギルベルトの、声が遠い。
 ―せやけどね。
 過去の自分の声が。
 妙に鮮やかに蘇る。
 現実の物音はどんどん遠くなっていくのに。
 あの夜の。
 温度や。
 空気や。
 ― 一番やのうても。
 触れた身体の、暖かさや。
 ―おまえがオレを好きやったんは。
 押し付けられたドアの、背中に心地よい冷たさや。
 ―しっとるよ。

「アーサーに会いに」

 ―今も、だよ。

 アーサー?
 ギルベルトが、怪訝な顔をした。

 ・・・海面の上昇、頻発する地震の影響で各地で津波、洪水が落ちており、当局はさらなる警戒を呼び掛けるとともに・・・。
 ラジオから流れるニュース。
 学校が近づいてきて、ロマーノはスイッチを切った。
 毎日、代わり映えのしないものばかり。
 誰も、その本当の理由は知らず、ただ不安だけが募っていく。
 本当の理由―アダムの成長、だ。
 使徒との接触を果たしたアダムは、思い出したように地面に根を張り続けている―らしい。
 そのために。
 ぐら、とまた地面が揺れた。
 ロマーノは思わず階段の手すりにつかまる。
 震度3くらいか。
 そんなことを判断できるようになるくらい、その頻度は高まっていた。
 揺れが収まるのを待って、ロマーノは階段を上がる。
 地震が起こるようになってからも、なぜか学校は休校にならず続いている。
 まるで、異常事態だと認めたくないように。
 明日も明後日も同じ毎日が続くのだと、そう頑固に主張しているように。
 生徒たちも、黙々と学校に通ってきていた。
「おはようさん」
 教室では、デンさんが一人で牛乳パックを咥えながら、携帯をいじっていた。
「おう。今日、相方はどうした?」
 いつも一緒にいるノルの姿が見えない。
 ん〜と、デンさんが頭をかく。
「アイスがな、怪我したっぺ」
「え!?」
 ロマーノは思わず級友を凝視する。ノルの弟、上級生の教室に来て一緒にご飯を食べていたあいつが?
「怪我って・・・」
「あーたいしたことねっぺ。ちょっと地震に驚いてこけたんだと」
 けらけらと笑うが、ロマーノは一緒に笑うことができない。
「ま、大丈夫だからよ。おまえが落ち込むこたねーべ。・・・この地震も、もうちょいだろ?」
 はっとして、ロマーノは顔を上げる。
 もう・・・少し。
「使徒は、13体なんだべ?おまえがあと2体倒してくれたら、それですべて終わりだっぺ。頼むわ、ヒーロー」
 ぽん、と腕を叩かれる。
 始業のチャイムが鳴り、ロマーノは機械的に席に着く。
 ヒーロー。
 それは。
(オレじゃねえよ・・・)
 ヒーローは、今日も欠席だった。

「会えない?」
 アントーニョは、怒りを持ってその言葉を繰り返す。
「司令は、お会いできないと申しております」
 電子的な声が響く。アントーニョは、携帯を取り出す。司令室直通の番号も、個人携帯にも反応はない。
 くそ、と吐き捨てると、アントーニョは大股で司令室の前へと歩く。
 そして、呼び出しを押すが、もちろん返事はない。
「・・・アーサー・・・」
 ガン、とアントーニョは拳を握って扉を殴る。
「おい、アントーニョ!」
 ガン、と今度は扉を蹴りつける。
「あほ、傷一つつくわけ・・・」
「アーサー!!どこにいる!どこにおるんや!!」
 ざわざわと職員が集まりだす。ギルベルトはアントーニョを沈黙する扉から引き剥がすと、自分のラボへと引きずって行った。

 目の前に湯気の立つコーヒーカップが差し出される。
「・・・飲め」
 飲みたくなくても、とその声は言っていた。
 アントーニョは、カップを受け取る。
 自分のカップを持ち、ギルベルトは椅子に座ったアントーニョに背を向けるようにして、窓に向かい合う。
 広大なジオフロントに、昼も夜もない。ただ、人工的な光が満たされているだけ。
 地中奥深くに作られたこの孔ぐらにいて、息苦しさを感じたことはなかった。
 だが、今は無性に外の空気が吸いたかった。本物の、外の。
「・・・なんで、アーサーなんだ」
 何者かに殺された、と職員は言った。
 セカンドインパクトからこっち、世界の半分は無政府状態に陥り、無法な組織が無数に出来た。犯罪者は急増し、警察はその対応に追われている。―警察がある地方は、だが。
 だから、殺人・強姦・誘拐の類は、以前の世界に比べればありふれたものになった。
 仕事の帰りにはした金の為に殺される、そんなことも珍しい訳じゃない。
 ―が。
「あいつに、殺されるような理由が・・・あったってのかよ」
 たかが、ネルフの事務職員に。
 乾いた笑いが、かすかにギルベルトの耳に届いた。
 ギルベルトが思わず振り返ると。
 アントーニョが顔を上げるところだった。

「せやってな」

 痙攣のような笑いと共に。

 アントーニョは、その言葉を吐き出した。

 ゆっくりと振り返りながら。

「あいつ、スパイやったもん」

 時間が、凍りついていく。

 波音が響いていた。
 ロマーノは、沈みゆく夕陽を見つめ、ようやく諦めて立ち上がる。
 『弟』は、今日は現れないらしい。
 ロマーノは、携帯を取り出す。着信も、メールもない。
 『弟』の住んでいる場所も、連絡先も知らないことに今更ながらに気づく。
 知っているのは、自分によく似た容貌と名前だけだ。
 フェリシアーノ。
 その名前すら、本物かどうかわからない。
「ちくしょ・・・」
 多分、まだアントーニョも帰っていないだろう。
 そう思いながらも。
 ロマーノには、彼の部屋しか帰っていく場所はなかった。
 
「・・・アントーニョ」
 扉をあけて、ダイニングテーブルの椅子に座った人影を認めたロマーノは、思わずその名を呼んだ。
 まだ6時だ。
 こんな時間にこいつがいるなんて。
 夕日の差し込むダイニングには、どこか重い雰囲気が満ちていた。
 この男がいる場所にふさわしくない空気が。
「おまえ・・・早い、じゃねえか」
 言いながら、スニーカーを脱ぐ。
 ぼんやりとテーブルに頬杖をついていたアントーニョが、ようやくこちらに気づく。
 そして、ロマーノに顔を向けると、おかえり、と微笑んだ。
 その笑みに―ロマーノの中の何かが弾けた。
「こんな時間なんやな・・・まだ夕飯、何も用意してへんわ。ちょっと待ったってな・・・」
 言いながら立ち上がったアントーニョ目がけ、ロマーノは無言で体当たりした。
「うわ、な、なんやね・・・っ」
 驚いて振り向いたアントーニョに、ロマーノは全力でしがみつく。
「ロマ・・・?」
 突然のロマーノの行動に、アントーニョが驚きつつもその身体を受け止める。
「どうした・・・?」
 ふわ、と頭に手が置かれる。いつも、暖かな手が。
 その暖かさを感じた途端、ロマーノの鼻の奥がツンと痛くなった。
(くそう・・・ちくしょう・・・)
 視界がぼやけていくのと同時に、たまっていたものが一気に出口を求めて彷徨い始める。
「・・・でだよ」
「ロマーノ?」
「どうして・・・オレなんだよ」
 アルフレッドのように才能があるわけじゃない、ヒーローになりたかったわけでもない。
 菊のように冷静に対処する能力もない。
 それなのに。
「もう・・・やだよ。オレ、無理だよ」
 一度堰を切った言葉は、止まらなかった。
 頭の中で、色々なものがぐるぐる回っている。
 動かない弐号機。
 表情を失くした菊。
 蠢くアダムの白い下半身。
 倒してきた―いくつもの異形の使徒。
「アルも・・・戦えねえし・・・本田も・・・なんか、変だし。アダムのせいで地震は起きるし・・・なあ、本当に終わるのかよ!?なんか、全然そんな気しねえよ!!オレ・・・いつまで戦えばいいんだよ!?いつまでやりゃあ、終わるんだよ!?」
 子供のように喚いて、アントーニョの胸を拳で叩く。
「ロマーノ・・・」
 う、と呻いてよろめいたアントーニョは、それでもロマーノを強く抱きしめる。
「おまえのせいなんだよ。おまえがいなきゃ、オレはエヴァになんて乗らなかった!おまえが・・・おまえが、追いかけてきたりしたから。追いかけてきたりなんかしたから・・・!!」
 おまえのせいだ、と繰り返す。
 本当はわかってる。
 誰のせいでもない。
 乗ることを決断したのは、自分だ。
 誰にも必要とされないことが怖くて、乗り続けてきたのは自分だ。
 それでも。
 誰かのせいにしたかった。
 甘えだとわかっていても、苦しみをぶつけたかった。
「勘忍・・・勘忍な、ロマーノ」
 おまえのせいだ、とうわごとのように繰り返すロマーノを抱きしめながら、アントーニョは、勘忍、と辛抱強く繰り返した。

 フロア図は頭に叩き込んであった。
 存在しないはずのフロアが、どこで既存のフロアに繋がっているか。
 見覚えのある一画にたどり着いたフランシスは、足の付け根を押さえながら作業室へと転がり込んだ。
 ネクタイでしばったが、溢れる血は止まらない。
「高いスーツだってのに・・・」
 まずいところが傷ついた。
 これは・・・助からない。
 妙に冷静に、そのことを認める。
 ―死ぬのだ、と。
 こんな、薄暗い場所で。
(オレが息絶えるのが早いか、あいつが止めを刺しに来るのが早いか・・・)
 ずるずると座り込みながら、フランシスは呼吸が速くなっていくのを感じていた。手足が冷たくなっていく。 
 だけど。
(まだだ・・・)
 フランシスは、ボイスレコーダーを握り締めた。そして、霞む目でアーサーの告白を収めた小さな機械を見つめる。
 そうして、スイッチを入れた。
 最後のメッセージを伝える為に。

 この地上に残された、一番大事なものに。

 ベッドの上で。
 子供のようにアントーニョに抱きしめられながら。
 アントーニョの歌う歌を聞く。
 消え入りそうな声で。
 でも、ずっと途切れずに。
 続く、アントーニョの歌。
 見知らぬ異国の、彼の国の。
 きっと、これは。

 子守唄。

 甘いララバイを聴きながら。
 泣き疲れたロマーノは赤く腫れたまぶたを閉じて。
 アントーニョの胸に顔を押し当てる。
 アントーニョの体温と鼓動が、不安に押しつぶされそうなロマーノをかろうじて守ってくれていた。
 ずっと、このまま。
 朝が来ないといいのにな。
 ずっと、ずっと、このまま。
 子守唄に包まれていられたら。

 けれども、夜は容赦なく更けていく。

 フランシスを見下ろすアーサー・カークランドの顔には、表情と呼べるものはなかった。
 銃を下ろし、アーサーは冷たくなったフランシスの横にしゃがみこむ。
 真っ赤な鮮血が、作業室の床を濡らしていた。
「・・・満足か?」
 その声は、少しかすれていた。
 は、とアーサーは顔をゆがませる。
「答えられるわけ・・・ねえか」
 アーサーは立ち上がる。
 そして、魂の抜けたフランシスの身体に背を向けた。
 その顔には再び固い無表情が浮かんではいたが、どこか羨望に似た色が混じっているように見えた。

「朝ごはん、できとるよ。昨日、食べなかったらお腹すいとるやろ?」
 朝の光と共にかけられた言葉は、いつも通りの明るい調子だった。
 ん・・・と、制服のままのロマーノは目をこする。
 アントーニョが朝の光を浴びながら、こちらを見つめていた。
「顔、洗ってき」
 浮かんでいる笑みには、昨日のどこか暗い面影は微塵もなかった。
 ちょうどよい焦げ目の付いたフレンチトーストに、スペイン産のはちみつをたっぷりかけて。
 いい香りのコーヒーにミルクを入れて。
 サラダには、ゆでたキノコやミニトマト。
 スープは、お得意のミネストローネ。
 デザートには、ヨーグルトがかかったフルーツ。
 ぐう、と鳴ったお腹に自分の身体のたくましさを感じて、ロマーノは力なく笑みを浮かんだ。
 昨日はなんだか今にも世界が終わってしまいそうな気がしていたのだけど。
(それでもやっぱ・・・終わんねえな)
 カフェオレを口に含むと、ふうっと暖かさが身体を満たす。
 今日もやっぱり学校に行って。
 使徒がくれば・・・戦って。
 そうやって。
 オレは、生きてく。
 顔を上げると、テーブルの向いでアントーニョが微笑んで見せた。
 その笑みに素直に応えることは、性格上やはり出来ないけれど。
 多分、こいつが笑ってくれる限り。
 オレは多分、どうにかこうにか生きていけるんだと。
 思いながら、ミニトマトを口に放り込んだ。

「今日・・・訓練、あんだよな」
 スニーカーを履きながら、アントーニョに尋ねる。
 ああ、せやね、とアントーニョは皿を運びながら答える。
「じゃあ、また、放課後、だな」
「おう。気ぃつけてな」
 いってらっしゃい、とアントーニョが手を振る。
 その姿をもう一度振り返って見つめて、行ってきます、とロマーノは扉に手をかけた。  

 扉が閉じるのを見届けて。
 アントーニョの顔から、すっと笑みが消えた。
 機械的に洗い物を終えると。
 残りのミネストローネを冷蔵庫に入れて。
 アントーニョは、寝室へと向かう。
 ジャケットをはおって、寝室の鍵付きの戸棚をあけた。
 そこには、一丁の拳銃。
 アントーニョは、それを取り上げ祈るように額に押し付ける。
 そして、ジャケットからボイスレコーダーを取り出した。
 ギルベルトのラボから自席に戻ると、よれよれの封筒に入ってこれが届いていた。
 部署名とアントーニョの名前。差出人はなく。
 社内便でそれは送られてきていた。
 封筒についた赤黒い染み。
 アントーニョが息を飲んで封筒を開けると、これが入っていたのだ。
 
「ホント、アホやね」
 オレも、おまえも。
 アントーニョは、昨夜ロマーノを抱きしめて眠ったベッドを一瞥すると。

 朝の光の中へと出ていった。

 もう二度と、帰ることはないだろうと思いながら。


 



 次号へ続く

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