みーんみーんみーん。
 すっかり耳になじんでいる蝉の声。
 アカデミーのカフェテリアでアントーニョが、ぐでっとテーブルに突っ伏した。
「あかん〜マジわからん。この試験落としたら、オレ留年や〜」
 めそめそするアントーニョを、困ったもんだとフランシスがアイスコーヒーを飲みながら見下ろす。
「オレもギルベルトも、この授業取ってないしなあ」
「フランシスが見捨てよった〜」
 薄情者〜と恨み事を言うアントーニョの前で、ミントティーのグラスに飾られたミントが爽やかな香気を放つ。
「見捨ててないけどさ。大体オレがあんだけ言ったのに、シラバス見て適当に決めたお前が悪いんだろ。おまえ、さぼってばっかだし」
 フランシスは言いながら、白いプラスチックの椅子のなめらかな背もたれに背中を預ける。
「せやかて、バイトせな生活できんやろ。授業料と寮費は出してもらえるからええけど。オレ、ランクCやから、それ以外の援助は出んもん」
「まあね」
「てかよ、マニアックなんだよ、おまえがとんの」
 ワッフルと格闘していたギルベルトが、生クリームを載せたワッフルを口に運びながら突っ込む。
 アントーニョは、フランシスからギルベルトに目を移す。そして、ぶーと口をとがらせながら反論する。
「面白そうやったんや」
「で?面白かった?」
「おう、おもろかったで」
 フランシスの質問に答えながら、きゅぴーん、とアントーニョが起き上がる。
「なら、試験は?」
「おもろかったけど、さっぱりわからんかった」
 再び、へな〜とテーブルに突っ伏した。
「やれやれ。あの先生、ひねくれ者だからなあ。毎年問題傾向違うみたいだし。大変なの知ってるから、とってる奴が少ないんだよな。オレの知り合いで誰かいたかな〜」
 フランシスが頭をかく。
 けけ、アホだな、とギルベルトが笑う。
「オレ様なんて、卒業に必要な単位はもうほぼ取り終えたぜ?」
 自慢げにそう言ったギルベルトを、フランシスとアントーニョがぎょっとして見つめる。
「いやはや、知性と勉強の出来は違うって言うか…」
「おまえの頭のよさがむかつくわ〜」
「何だよ、その反応!って、アントーニョ、頭齧んな!」
 どさっとおぶさり、がじがじと頭をかじり始めたアントーニョを、ギルベルトが振り払う。
「おまえの頭と交換してや〜」
「無理に決まってんだろ」
 やっぱ無理かあ、とアントーニョがシュンとした時だった。
 ぽこん、と何かがアントーニョの頭に当たった。
「なんや?」
 アントーニョが頭を押さえる。
 そして、跳ねてテーブルの上に乗ったものを見る。
 丸めた紙クズだった。
 アントーニョが上を見上げると。
「わりぃ。ゴミ箱狙ったつもりだったんだけどな」
 吹き抜けになったカフェテリアの一階層上のテラスから、アーサーが見下ろしていた。
 白いシャツにサマーベスト。図書館で借りてきたらしい本を小脇に抱えている。
 アントーニョが怒鳴る。
「ゴミ箱、あっちやで!ノーコン過ぎやろ!わざとやな!!」
 うがーっと吼えたてるアントーニョを、アーサーは涼しげな顔で見下ろす。
「それ、捨てておいてくれ。じゃあな」
 そう言うと、アーサーはふいっと姿を消した。
「ったー!もう、なんやねんな、あいつは〜」
 ぶつぶつ言うアントーニョに、おい、とフランシスが呼びかける。
「ん?」
「これ」
 フランシスが紙くずを丁寧に開いて、アントーニョの目の前に突きだす。
「これって・・・」
 アントーニョが目を見開く。
 それはノートのコピーだった。几帳面な字で綺麗に要点がまとめられたそれは、アントーニョが挑もうとしている科目のもの。
 しかも、ノートの一部分に丸がついている。
「アーサー先生のヤマカケつきらしい」  
 目を瞬いたアントーニョは、やがて、くは、と苦笑した。
「なんやねん、あいつ、素直やないなあ」
「ツンデレってやつだな」
「同じくらいツンデレにお返ししてやろうぜ。クッキー焼いて行って、お、おまえの為じゃないんだからね!?とかさ」
 言いながら、三人は腹を抱えて笑う。
「や〜ほんま、助かったわ。今はあのまゆげが天使に見えるww」
 言いながら、アントーニョは座り直す。もう既に試験は制したとばかりに上機嫌で。
「しかし、あいつ、16だっけ?去年入ってきたばっかなのに、もう首席だよ。ありえねえな」
「ああ、なんか、あいつもう今年軍の研究機関に入るらしいぞ」
 最後のワッフルのかけらを口に放り込んだギルベルトが言う。
「はあ〜?えらいこっちゃな。子供でいる暇もないわな」
「世界中の英才集めたアカデミーでも、さらに飛びぬけた天才ってやつだな。しょうがねえよ。天才はそれに見合った苦労を背負っちまうもんだ」
 フランシスが飲み終えたアイスコーヒーのグラスをテーブルに置く。からん、と残っていた氷が音を立てた。
 そして、ギルベルトを見る。
「そういや、お前も飛び級だっけか。ギル」
「まあな。てか、オレも来年軍に入ることになったぞ」
 トッピングのマンゴーをうまそうに食べ終えると、ギルベルトがさらっとそう言った。
 一瞬動きを止めたフランシスとアントーニョは、それから同時に、えええええええ、と叫んだ。

 ―菊!菊!!
 真っ暗な闇の中に。
 光が射した。
 その眩い光の中で。
 あの人が私を見ていた。
 ―アーサー・・・さん?
 身体がばらばらになりそうに痛くて。
 声はかすれていた。
 その消え入りそうな声を聞いて、あの人は顔をくしゃ、と歪めた。
 まるで今にも泣きそうな顔で。
 ―よかった・・・。
 と、呟いた。呟いて、下を向いた。
 その時、私は気づいた。
 暴走した零号機から強制的に吐き出されたエントリープラグは、訓練室の天井と壁にあたり、激しく擦れて熱を帯びていた。
 その扉をむりやり素手で開いたアーサーは、手にやけどを負っていた。
 ―アーサーさん・・・手が。
 身体を起こそうとすると、鋭い痛みが走った。
 菊、とアーサーの手が菊の肩に置かれる。
 ―動くな。大丈夫だ。俺なら、問題ない。おまえも。
 その時、初めて。
 私は、あの人が微笑んだのを見た。
 ―大丈夫だ。
 大丈夫。
 その言葉は、不思議なほど痛みを和らげた。
 なのに。
 なぜか、その時。
 生まれて初めて。
 私は、涙をこぼした。

 がく、と前にのめりそうになって、菊は、はっと目を覚ます。
 頭を振る。
 白い病室のベッドのわきに置かれた目覚まし時計を見る。
 午前2時。
(少し・・・うとうとしてしまったようですね)
 懐かしい・・・夢を見た。
 菊は、ベッドの上の少年に目を移す。
 西洋人特有の白い肌。
 さらさらとした金色の髪。
 アルフレッド。
 手を伸ばす。
 唇のすぐ上で止めると、かすかな息を感じる。
 ―生きている。
 菊は、手を引っ込めた。
 菊は座り直す。
 長い、一日だった。
 そう思って、目を閉じる。
 使徒との戦い。
 アルフレッドの負傷。
 あれは、まだ午後3時くらいのことだった。
 やっとのことで使徒を倒して、メディカルルームに運び込まれたのが午後5時近く。
 それから、アルフレッドの容体が安定してから―菊はずっとここにいる。
 お前の方が倒れるで、と言ったのは、やはりアントーニョだった。
 自分もひどい顔をしていた気がするけれど。
 大丈夫です、と菊は答えた。
「食事もとります。睡眠も倒れない程度に。エヴァに乗るのに支障は出しません。ですから、ここにいさせてください」 
 その言葉を聞いて、アントーニョは痛みを覚えたような顔をする。
「そういうこと言うとるんやない」
「なら」
 菊は振り返らずにしゃべる。
「アントーニョさんなら、家に戻れますか。家で眠れますか。ロマーノさんや・・・そうですね、フランシスさんがここに寝ていても」
 一瞬の沈黙が、アントーニョの敗北を示していた。
「私はここにいます。アルフレッドさんが目覚めるまで」
 菊が止めのようにそう宣言すると、アントーニョはため息をついて頭をかきむしる。そして、アルが気ぃついたら、おまえは一旦帰るんやで、と言うと、病室を出て行った。
 菊は、アルフレッドをただ見つめている。
 外傷はなかった。
 ただ、パイロットは深くエヴァとシンクロしている為、エヴァの受けた痛みを己のものとして感じてしまう。
 幻痛だ。
 だが、そのまやかしの痛みは、人を殺すこともできる。
 アルフレッドは、己がトゲで胸を貫かれた痛みを覚え、ショックで死にかけたのだ。
「ねえ・・・アルフレッドさん」
 菊は、静かに語りかける。
「貴方が死んだら」
 膝の上の菊の手が、わずかに震える。
 菊は微笑みを浮かべて、眠ったままのアルフレッドに語りかける。
「私は、生きてる意味などないんです」
 そう言うと、菊は祈るように両手を組み合わせ、その上に額を載せた。

 午後6時半。
 常夏となった日本では、ようやく日が暮れかける頃合いだ。
 ロマーノは、空を見上げる。
 青い空に、金色の光が混じり始めていた。 
(くそ・・・)
 心の中で、意味もなく悪態をつく。
 また、逃げた。
 その想いが、暗く心にのしかかっていた。
 アルフレッドがメディカルルームに運び込まれ、しばらく出てこなかった間。
 残された菊と一緒にいて、ロマーノは息苦しさを感じていた。
 菊は、一言も口を聞かない。
 まるで、人形のようにじっとしていた。
 そして、ロマーノもまた話しかけることができないでいた。
 ―しゃんとなさい!あなたがすくんだ時間だけ、アルフレッドさんの死が近づくんです!
 あんな風に菊が怒鳴るなんて、思ってもみなかった。
 狂ったようにアルフレッドの名を呼びながら、エントリープラグの中を覗き込む菊を見ながら、オレはただ身をすくませていた。
 どうしよう、どうしよう。
 そればかり、思っていた。
 オレのせいだ。
 オレがぐずぐずしてたから。
 アルみたいに、うまくやれなかったから。
 どうしよう、どうしよう。
 アルが死んだら。
 オレのせいだ―。
 けれど、誰もロマーノを責めず、アントーニョは帰還したロマーノの肩をぽんと叩き、それからその肩を引き寄せた。
 アントーニョのぬくもりを感じながら、ロマーノはみっともなく泣いた。
 ただ、泣くしかできなかった。
「・・・アルフレッドさんが、初めてエヴァに乗って戦ったときは」
 え、とロマーノが突然の菊の言葉に驚いて顔を上げる。
 菊は相変わらず無表情のまま、前を向いてしゃべっていた。
「貴方よりもひどかったんです。まったく、エヴァを動かすことが出来なかった」
 ロマーノは、菊の言葉に目を見開く。
 あのアルフレッドが?
 鮮やかに敵を倒す、ヒーローのようなあいつが?
「マジかよ・・・」
「ええ、マジです。ねえ、ロマーノさん?あの人がどれだけ努力をしたか、知ってますか?あれだけの実力をつけるまでに、あの人がどれだけの訓練を重ねたか」
 ロマーノは言葉に詰まる。
「怖くない、怖いものなんかない、って。そう言い聞かせてたんですよ、あの人は」
 トレーニングの後で。
 ふと、トイレの前を通りかかると、頭から水をかぶったアルフレッドが鏡を見ながら低く呟いていた。
 ―怖くなんてない、と。
「ヒーローって、大変ですね」
 ふ、と菊がその時初めて、柔らかい笑みを浮かべて見せた。
 その笑みを見て、ロマーノはなぜかまた涙がこみ上げて。
 ロマーノは顔を伏せた。

 そして、アルフレッドの容体が安定した、との知らせを受けて。
 ロマーノと菊は同時に立ちあがった。

 それから。
 病室で眠り続けるアルフレッドを見ていられず、ロマーノは促されるままに本部を出た。
 ただ、アントーニョは残務整理があるらしく、ネルフに残り。
 ロマーノは一人家に帰る気になれず、ぶらぶらと海岸線を歩いていたのだった。
 菊は。
 残ると言って聞かなかった。
 アントーニョが病室から出てきてため息交じりに、しゃあないな、と呟いた。

 菊は。
(アルフレッドが・・・好きなんだな)
 ぽつん、と思う。
 海からの風が吹いた。
 銅色に染まっていく空。
 生き物の棲まない赤い海の上空には鳥もいない。
 昔は、カモメだとか色々な鳥が飛んでいたらしいが。
 眠り続けるアルフレッドを黙って見つめる菊のまなざし。
(どうしようもなく・・・好きなんだ)
 そう思うと、また鼻の奥がむずむずしてくる。
 大好きな奴が死にかけてる時に、オレは全然役に立たなくて。
 菊は、どれほど苛立っていただろう。
 自分が二人いれば、と歯噛みしたことだろう。
 適当にやっていればいいや、と思っていた過去の自分を思い出す。
 菊が怒ったのも当然だ。
(全然わかってなかった)
 オレって奴は。
 ホントに全然。
「何にも、わかってねー・・・」
 ロマーノが呟いた時。
 ふと、何かが聞こえてきてロマーノは立ち止る。
 鼻歌。
 どこかで、聞いた。
 これは、歓喜の歌。
 ロマーノは思わずあたりを見回す。泳ぐに適さない海になってから、海でレジャーをする者はいない。漁をする者も。
 そのため、海岸線には人っ子一人いなかった。
 はずなのに。
「歌って、いいよね」
 ふいに、かけられた声。
 え、とロマーノが、顔を上げると。
 セカンドインパクトの際崩れた建物から飛び出した鉄骨の柱の上に。
 一人の少年が座り、ロマーノを見下ろしていた。
「歌は、心を潤してくれるんだよ」
 そう言った少年の顔を見て、ロマーノはぎょっとする。
「お、オレ!?」
 ぱくぱくと口を開いたり閉じたりしながら、こわごわと少年を指さす。
 指の先には、鏡のようにロマーノにそっくりな顔があった。
 しかし、その少年は、にこ〜とゆるく微笑んで見せた。
「オレね〜」
「いや、待て!言うな!おまえ、ドッペルゲンガーだろ!?うわああああ、オレやっぱり近々死ぬんだー!エヴァなんかに乗るんじゃなかったー!!アントーニョのばかやろー」
 頭を抱えて背を向けたロマーノに、あっけにとられていた少年が慌てて話しかける。
「え、え、待ってよ。違うよ、オレ、どっぺるなんとかじゃないよ!オレ、靴ひも結べないし、栗の皮むけないし!」
 ぴた、と逃げ出そうとしていたロマーノの足が止まる。
 そして、ゆっくりと振り返った。
「・・・オレもだし」
 わあ、と少年が手を合わせる。
「一緒だね〜。ね、オレ達、似てるよねw兄ちゃんって呼んでいい?」
「はあ?意味わかんねーよ、なんでだよ!?」
「ところで、兄ちゃん」
「早速かよ!?」
 つっこんだロマーノに、いきなりべそかきそうな顔になった押しかけ弟が情けない声で言った。
「降りられない…」
「あほかー!!」

 それから、悪戦苦闘すること30分後。

 ぜいぜいと息をつきながら、二人の少年は海岸に座っていた。
 夕日の最期の残滓が海の向こうに消えようとしていた。
「や〜ありがと〜。兄ちゃんがいなかったら、オレ、ずっとあそこで暮らすことになってたよ〜」
「降りられないなら、昇んじゃねえよ!すげえ苦労しただろ!?」
 うん、とシュンと少年が俯く。
「昇ってみたくなっちゃったんだよ・・・」
 情けない声でそう言った少年のお腹が、ぐう、と鳴った。
 少年がお腹に手をあてる。
「お腹空いちゃった…」
 言いながら、じっとロマーノを見る。
「減っちゃったって、おまえ・・・」
 ロマーノは、あ、そうだ、とカバンの中から袋を取り出す。
「カレーパンと牛乳しかねえけど」
 わあ、と少年が顔を輝かせる。
「半分こだぞ」
 言いながら、ロマーノはカレーパンを二つに割る。カレー独特のにおいが食欲をそそる。
 指をくわえて待っている少年に、ん、と片方カレーパンを渡した。
 わあい、と少年がカレーパンにぱくりと齧りつく。
「わあ、美味しいね」
 ロマーノは同じようにカレーパンにかぶりつきながら、怪訝な顔をする。
「おまえ、カレーパン食べたことないのか?」
「ないよー」
 もしかして、こいつすごいお坊ちゃんとかなのだろうか?ロマーノが首をひねった時。
 ねえ、兄ちゃん?と少年が口を開く。
「兄ちゃんは、何をわかってないの?」
 え、とロマーノは目を見開く。 
 ―何にも、わかってねー・・・。
 思わず漏れた呟き。
 聞こえてたのか。
「な、なんでもねえよ」
 ぷい、とロマーノは目をそらす。
 しかし、謎の少年はじいっとロマーノを見つめ、ぐいっと身を乗り出してくる。
「な、なんだよ」
「兄ちゃん、泣きそうな顔してたよ」
 ぐ、とロマーノは言葉に詰まる。アントーニョの前でも、菊の前でも泣いたってのに。
 どんだけオレは涙腺が弱いんだろう。
 ロマーノは下を向く。
「・・・自分の馬鹿さ加減に、涙が出んだよ」
 そう言うと、ロマーノはばくりとカレーパンをほうばった。


          

             


 アルフレッドという少年を。
 見たのは、その時が最初だった。
 エヴァンゲリオン弐号機から運び出されたのは、快活そうな白人の少年。
 この人が。
 アルフレッド・F・ジョーンズ。
 弐号機のパイロット。
 ヘリから降りてきた人影を見て、菊は思わず立ち止まる。
 アーサーさん。
 しかし、アーサーは菊に気づかず、まっすぐにアルフレッドのストレッチャーに近寄る。
 アル、とアーサーが呼びかけた。
 が、アルフレッドは気を失ったまま。
 アーサーが心配そうに、ストレッチャーを運ぶ医療班に尋ねる。
 大丈夫なのか、と。
「問題はありません。ショックで気絶しているのと、背中を強く打ちつけているだけです」
 その答えにアーサーが、そうか、とほっと息をつく。
 そうして。
 やっと、背後に立つ菊に気づいて振り返った。
 碧の瞳が、菊を捉える。
 そうして。
 アーサーはゆっくりと笑みを浮かべる。
「よくやってくれたな、菊」
 ―よくやってくれた。
 びり、と身体が痺れた感じがした。そして、何かが空っぽの体の中に注がれていく感覚。暖かい優しい何かで、満たされていく。
 菊は、わずかにひかえめな笑みを浮かべる。
「・・・はい」
 やっと、それだけ答えた。
 ストレッチャーが救急車の中へと消えていく。
 それを見送ったアーサーは、再び菊に向き直った。
 そうして、少し目を細めると。
 菊の肩に手を置く。
 菊、とアーサーが菊の名を呼ぶ。
 はい、ともう一度答えると。
 アーサーは菊の目を覗き込みながら、言った。

「アルフレッドを、守ってくれ」

 ぽん、と肩を叩いた。
 そうして、アーサーは指示を与える為に去っていった。
 その場に立ちつくした菊は、少し経って片手を持ち上げる。
 そして、アーサーの触れた肩に手を載せた。
 低い声で、呟く。
 ―アルフレッドを、守ってくれ。

「・・・貴方が、そう望むなら」

 菊は、空を見上げた。

 車を降りて。
 アントーニョは、風を受ける。
 見上げれば、夜空に輝く一番星。
 海の色が赤く染まった今も。
 空の色は変わらない。
 だから。
 空を見上げると、ほっとする。
 宇宙に続く美しい夜空。
 けれど。
 ―使徒は、あそこからやってくる。
 凍てつく星の世界から。
 アントーニョは、眼下の街を見下ろした。
 暗闇の中に無数の光が集まったように見える要塞都市。
 まるで、海原を漂う船のように。
 そして、その向こうに広がる赤い海。
 今は闇に沈んで色はわからないが。
 アントーニョは、ポケットに手を突っ込んで車に寄り掛かる。
 残務整理は長引いた。
 ロマーノはもう寝ただろうか。
 疲れただろうから、きっと寝ているだろう。
 時計を見ながら、そう思う。
 自分は疲れているだろうか?
 自問する。
 結論。
 疲れては、いる。
 けれど。
 たとえば今、ベッドが目の前にあったとして。
 そこに飛び込んで眠れるだろうかと考えた時。
 おそらく無理だろうと思う。
 そういう種類の疲れだった。
 身体の中で、消化しきれない何かが蠢く。
 冷たい碧の目。
 しこりのように、残っている。
 ―いいか。
 ひたと見据えて。
 ―本気で守りたいものがあるなら、他のすべてを捨てる気で守れ。
 押し殺すような低い声で。
 ―でなければ、守れるものなんて何一つねーんだよ。
 断罪するような強さで。
 アントーニョは目を閉じる。
 瞼の裏に浮かび上がるのは、白いシャツ。頑なで華奢な肩。
 ―アントーニョさんなら、家に戻れますか。家で眠れますか。ロマーノさんや・・・そうですね、フランシスさんがここに寝ていても。
 白いベッドの上で眠るアルフレッド。
 アントーニョは目を開くと、くしゃ、と髪に手を入れる。
 ロマーノの泣き顔が浮かんだ。
「大人やのに、なあ」
 呟く。
「オレ、大人やのにな・・・」
 煙草がほしい。
 ふと、そう思った。
 喫煙家ではない。
 美味しいと思ったことはない。
 なのに。
 なぜか、煙草がほしいと思った。

 煙草の匂い。

 ふいに蘇る記憶。
 ―ああ、そうか。
 アントーニョは少しだけ考えるような顔をして。
 それから、車に乗り込んだ。

 静かにアスファルトの上を滑り出した車を、星の光だけが追いかける。

「貴方は死にませんよ」
 ジオフロントの各施設をつなぐ長いエスカレーターに乗りながら。
 そう、答える。
 ―君は、怖いとは思わなかったのかい?その・・・死ぬかもしれないってこと。
 アルフレッドの言葉に対する答えだった。
 人が乗ったことで、エスカレーターが下に向かって動き出す。
 零号機の暴走。
 その事故のことを、アルフレッドは知ったらしかった。
 我ながら、そっけない言い方になった。
 思いながらも、菊はただ前を向いていた。
 そして、さらに言葉を重ねる。
 ―アルフレッドを、守ってくれ。
「私が守りますから」
 淡々とそう言った途端、がっと肩を掴まれ、無理やり後ろを向かされる。
 痛みに顔をしかめる。
 振り向くと、怒りに燃えた空色の瞳が菊を睨みつけていた。
「…何だよ、それ」
 アルフレッドは低い声で言う。
「オレは、守ってもらう必要なんてない」
 菊は、片方の眉を持ち上げる。自覚はしていた。―意地の悪い気持ちになっていることを。
「へえ、そうですか」
 アルフレッドの頬にサッと赤みが走る。戦闘中、エヴァを動かせなくなったこと。そのことは、彼のプライドをひどく傷つけた。
 肩に力が込められた。
「・・・アーサーか?」
「はい?」
 ぶっきらぼうな声で、問い返す。
 アルフレッドは苛立ちを込めた声で質問をぶつけた。
「アーサーがそう言ったのか?君に、オレを守れって?」
 菊は沈黙を持って答えた。
 アルフレッドの苛立ちが高まる。
「なあ!答えろよ!アーサーがそう言ったのかって、聞いてるんだ!」
 ぐ、と肩をつかむ手に力を込める。
 馬鹿力。
 菊の中で、どろっとした何かが動く。
 気に食わない。
 この傲慢な少年が。
 初めて、胸の中に渦巻いていたもやもやとした感情がはっきりと形をとる。
 私は。
 この人が、嫌いだ。
「ええ」
 菊は、アルフレッドをにらみ返す。
「あの人が言いました。貴方を守れと」
 アルフレッドの瞳が揺らいだ。ガラスにひびが入った時のような。そんな音が聞こえた気がした。
「なん・・・だよ、それ」
 肩をつかんだ手が震えた。アルフレッドは少し俯き、それからキッと顔を上げる。ここにいない人を睨みつける。
「いつだって・・・アーサーはいつだってそうだ!オレを子供扱いして…!」
 アルフレッドは、ぎゅっと目をつぶって叫んだ。
「オレを信じてくれないんだ・・・っ!」
 激昂するアルフレッドを、菊はどこか冷えた眼で見つめる。
 そして、眉をひそめた。
「・・・ずいぶんと、子供っぽいことをおっしゃる」
 え、とアルフレッドが顔を上げる。
 菊の表情の読み取りにくい黒い目に、明らかな侮蔑が浮かぶ。
「アーサーさんが貴方を子供扱いするのは、貴方が子供だからです」
 この人は。
 お菓子をねだって駄々をこねる子供と同じ。
 親の愛を当然のものと享受して。
 その上に、胡坐をかく傲慢な子供。
 アルフレッドの怒りが頂点に達する。
「アーサーは、オレを子供にしておきたいだけだ!」
 その言葉を聞くと同時に、考えるより先に手が動いていた。
 ぱしん、と小気味よい音がエスカレーターで結ばれた胡乱な空間に響く。
 アルフレッドの目が見開かれる。
 頬を叩かれるなど、思ってもみなかったのだろう。
 ああ、やってしまった。
 思いながらも、菊は口を開く。
「あの人が信じられないなら、もうエヴァに乗るのはおよしなさい」
 そう言うと、菊は残り少なくなっていたエスカレーターの残り段数を歩いて降りた。
 後ろを振り向く気にはなれなかった。

 アルフレッドを置いて、ロッカールームに入る。
 そして、自分の手を見つめた。
 手に残る、じんとした感覚。
「・・・私としたことが」
 呟くと。
 菊は、プラグスーツに着替え始めた。

「ふうん。それで、アルフレッド君はまだ起きないんだ」
「ああ・・・」
 話し終えた時には、すっかり日が暮れていた。
 腕時計を見る。
 この時間に帰ってロマーノがいなければ、アントーニョは電話してくるだろう。
 それがないということは、アントーニョ自身がまだ帰っていないということだ。
 ロマーノと同居を始めてから一週間、律儀に毎日家に戻ってきていたが、忙しい時はよくネルフに泊ると言っていた。
 今夜は戻ってこないかもしれない。
 そう思うと、少し気が楽になった。
 アントーニョに気を使われるのは苦痛だった。
 ざざ・・・ん。
 波の音が響く。
 ロマーノは膝を抱えた。
 月のない夜空。
 星だけが光を投げかける。 
「オレ・・・最低だよな。本田の気持ちも…アルの気持ちも、何にもわかってなかった。自分のことばっかりで…」
 なんで初めて会ったこいつにこんなこと話してるんだろう。
 そう思わなくもない。
 けれど、この同じ顔をした少年は緊張感というものに著しく欠けていて、尚且つ部外者ということで妙に楽にしゃべることができた。
「でもさ、もうわかったじゃん」
「え?」
 ロマーノは顔を上げる。
 少年がにこりと微笑んだ。
「わかってなかったかもしれないけどさ。けど、もうわかったじゃない。そのアルフレッド君がどんな気持ちで戦ってきたか、本田君がどんなにアルフレッド君を大事に思ってたか、さ」
 柔らかい笑みで。
「今まで知らなかったのは、しょうがないし。兄ちゃんはこれでもうわかったんだから、大丈夫だよ〜」
 言いながら、がりがりと砂に棒きれで絵を描く。くるん、と棒を動かした。
「えへへ、オレと兄ちゃん」
 手元を覗き込むと、ロマーノと少年と思しき絵が描かれていた。
「へえ、うまいな」
「でしょ」
 ロマーノはじっと少年を見る。見れば見るほど、自分によく似ていた。
「・・・ところで、めちゃくちゃべらべらしゃべっちまったんだけど、一応これ機密な気がする」
「大丈夫だよ〜誰にもしゃべらないよ。オレ、友達いないし」
「いや、別の意味で心配なこと言うなよ。・・・でさ、今気づいたんだけど、オレ、おまえの名前も聞いてねえ。てか、オレも言ってねえ」
 なんだそれ、と自分でつっこみたくなる。
 あ〜と少年が空を見上げる。
「オレねえ、フェリシアーノ」
「フェリシアーノ、か。オレは」
「ロマーノでしょ、知ってるよ〜」
 え、とロマーノが驚いてフェリシアーノを見る。フェリシアーノはにこ〜とまた微笑んだ。
「多分そのアルフレッド君と本田くんだと思うけど、一緒にいるときにたまたま呼ばれるの聞いたんだ。結構この海岸の横通るでしょ」
 確かに通るが。
「よ、よく覚えてたな、そんなの」
「兄ちゃん、オレにすごくよく似てるからね。気になったの」
 ああ、それは確かに気になる。
 ん?とロマーノは宙を睨む。
「いや、待て。ロマーノってのは…」
「ねえ、兄ちゃん?」
 本名じゃない、と言おうとして遮られる。フェリシアーノがロマーノを見ていた。
「おうちには帰らなくていいの?アントーニョって兄ちゃんが心配しない?」
 ロマーノは口をつぐむ。
「・・・多分、あいつはまだ職場。今日は帰ってこないかもしれねえ。オレも…」
 抱えた膝の上に顎を載せる。
「帰りたくねえな」
 ぽつんと呟く。
 今、家に戻って。
 一人でベッドに入ることを考えると、それだけで気が重い。
 じゃあさ、とフェリシアーノの声が聴こえて。
 ロマーノが隣を見ると。
 フェリシアーノがにこにこしながら口を開く。
「朝までここにいようよ」
 オレ、付き合うからさ。
 『弟』の顔を見ながら、気が付けばロマーノはうなずいていた。

 フランシスは段ボール箱が無造作に置かれたフローリングの部屋で。
 ソファに座りながら、ノートPCを開いていた。
 今までの闘いの記録。
 ―初めて、生で使徒を見た。
 使徒とエヴァンゲリオンとの戦いというものを。
 さすがに戦慄を覚えた。
 あんなものに縋って。
 人類はようやく生きながらえている。
 あの子供たちを犠牲にしながら。
 ―罪深いことだ。
 そう思った時。
 ピンポン、とインターフォンが鳴った。
 時計を見る。
 午前0時を少し回ったところ。
 少し考えて。
 しかし、フランシスは立ち上がり、咥えていた煙草を灰皿に押し付けた。
「はいはーい」
 ガチャリ、と扉を開けると。
 アントーニョが飛び込んできた。
 まるで、弾丸のごとく。
「うわあああああっ」
 アントーニョだろうとは思っていた。
 が、いきなり飛びかかってくるとは思っておらず、抱きつかれた勢いでフランシスは思いきり後頭部から床に倒れた。
「あたあっ!目から火花でた、火花っ!!」
 フランシスが叫ぶと。
 首に手をまわして飛びついてきたままのアントーニョが、くぐもった笑い声をたてる。
 扉がゆっくりと閉まった。
 フランシスは目だけで胸の上を見る。
 黒い収まりの悪い髪。
「・・・酔ってんの?」
「酔うてへんよ。落ち込んどんの」
 あそう。
 落ち込んでるの。
 フランシスは息をつく。
「・・・アルのことか?あれは、おまえのせいじゃ・・・」
「ちゃうねん」
 相変わらず玄関に折り重なるように倒れたまま。
 フランシスはアントーニョの言葉を聞いている。
「オレな、あいつが倒れた時、すぐに他のプラン考えなならんかったんや」
 作戦部長として。
「アルがおらん状態での最善の策をな」
 けど。
 脳裏をよぎるアルの笑顔。
 フランシスの首に回した手をぎゅっと握り締める。
「・・・思いつかなかってん」
 思いつかなかった。
 相変わらず顔を上げず。
 アントーニョはしゃべり続ける。
「いつの間にか、オレは当たり前やと思うとったんや。アルが敵に突っ込んで行くこと。ロマーノみたいに怯えたりせえへん。天才のあいつが一番しんどいとこを受け持つ。それを前提にすべての作戦を考えとったことに気づいた。頭ではわかってたんや。菊が抜けたみたいにアルが抜けることもありうる。その場合の戦い方を考えなならんて。・・・けどな」
 その日、は。
 いつか遠い未来のことになっていた。
 いつの間にか。
「あーもう、なあ」
 アントーニョが唸る。
「オレ、作戦指揮官失格やってんなあ。いつの間にか、頼っとったわ。あんなガキに」
 ほんまに、とアントーニョは顔を上げないまま。
 フランシスの首に回した腕に力を込める。
「あいつが不死身でないことも、ただの子供であることも・・・わかってるつもりやったのに」
 語尾が少し震えた。
 昔なら。
 フランシスは、天井を見ながら思う。
 ―オレのせいや。
 アルが目覚めんかったら、どないしよう?
 そう言いながら、ぼろぼろ泣いただろうな。
 そう思いながら。
 フランシスは、アントーニョの背中に手を回す。
 ゆっくりと抱きしめる。
 7年。
 そう、7年経ってる。
 以前、おまえを抱きしめた時から。
 時計が再び動き出す。
「・・・うん」
 うん、とうなずきながら。
 顔を上げようとしないアントーニョを、強く抱きしめた。


 次号へ続く

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