大きな月が出ていた。
 その光は、しらじらと病室の白い壁と白いシーツを照らし出す。
 深夜2時。
 菊は、アルフレッドの眠るベッドの横に座り、まだじっとアルフレッドを見つめていた。
 そして。
 月の光が陰影を刻むシーツの上に投げ出されたアルフレッドの手のひらに、そっと触れた。
 まだ柔らかな少年の手のひらに、刻まれた赤い痕をなぞる。
 今回の戦いで出来た傷ではない。
 今回彼には、外傷はなかった。
 それは、もっと古いもの。
 火傷の痕だ。
 菊は、目を細めた。
「痕が・・・残ってしまいましたね」
 菊は、溢れそうに水の入ったコップを持ち上げるほどの慎重さでアルフレッドの手を持ち上げる。
 時々、ちらりと傷が見えた時の。
 心の疼き。
 これを、人は何と呼ぶのだろう。
 悔恨―?
 責務を果たせなかった自責の念、だろうか。
「貴方の体のほんの一部・・・髪の毛一本すら」
 少しためらって。
 持ち上げた手を祈るように両手で包む。
 そして、その上から唇を重ねた。
「私の命よりも重いのに」
 目を閉じたままの、アルフレッド。
 こうして。
 私の命が注げたら、いいのに。
 少々迷惑だと思わなくもなかった同居だが。
 無機質だった私の生活が。
 貴方がいることで変わった。
 おはよう、おやすみ、と貴方が言って。
 些細なことで笑って。
 貴方が美味しいと言えば、それまで味などしなかった料理が美味しいように感じられた。
 色彩。
 そう、貴方は世界に色をもたらすのだ。
 貴方を失えば。
 私の世界は再びモノクロに沈む。
「目を覚ましてください…アルフレッドさん」
 囁く。
「そろそろ起きないと…遅刻しますよ」
 寝ぐせをつけたまま、慌ててパンを口に突っ込むことになる。
「朝ごはん、作ってあげますから」

 だから、どうか。

 目を開けて。

 菊は、目を閉じた。

 ―菊は下がれ。0054地点でバズーカを受け取って待機!そこなら、撃っても他への被害は最小限に抑えられるはずや。ええか、アルフレッド。おまえは、そこまであいつを誘導するんや。あいつがどんな力をもっとるかわからん。必要以上に近づくんやないで。
『了解しました!零号機、下がります!』
 アントーニョの指示に応え、本田菊がハンドガンを撃つのをやめ、後退を始める。
『やれるな、アル?』
「やれるにきまってるだろ!オレはヒーローなんだ、ぞ!」
 言いながら、アルフレッドはハンドガンを使徒の複数の目に向かって掃射する。
 グオオオン、と使徒がのけぞった。
「いいぞ、こっちじゃない。お前の行くのは、あっちなんだぞ!」
 弐号機は走り出す。
 使徒。
 地上に降り立った二体目の使徒は、地上の生き物に例えるなら、フナ虫だろうか。ただし、足が多い。
 平べったい節がつながったような楕円の胴体に、甲殻類の持つような足が無数について、それがうぞうぞと蠢いて前に進む。
 口は、ムカデに似ていた。
 横に開いた大口に、牙に似たものがついている。
 使徒は、家といわず木と言わずビルと言わずすべてのものをその平たい胴体の下に破壊しながら、突進してきていた。
 使徒の通った後には、ローラーされな道が出来ている。
 弐号機に目を撃たれ、嫌がるように進路を変えた使徒は、しかし何か気を引くものがあったのか、再びこちらに顔を向ける。
「くそったれ!おとなしく、あっちへ行けよ!」
 助走し、勢いをつけた弐号機は、突進してくる使徒の顎をすくうように蹴りあげた。
 使徒の上半身が宙に飛ぶ。
『な・・・っ』
 アントーニョの驚いたような呆れたような声が入ってくる。
『使徒蹴りよった・・・めちゃくちゃやな』
 一瞬空中で止まった使徒は、それからしなるように地面にたたきつけられた。
(ふん、いけるじゃないか)
 地面に降り立ちながら、アルフレッドが目を上げた。
 攻撃は通じてる。
 これなら―。
(これなら、オレ一人でも)
 あいつの力なんて、借りなくても。
 アルフレッドは、使徒を睨む。ぱくぱくと重ね合わされる口。
 その奥のぬらぬらとした赤さ。
(よし)
 アルフレッドはハンドガンを握り締めて、立ち上がる。
 そして。
 再び、使徒へと向かって走る。
『アル!?おまえ、何する気や!?』
 アルフレッドの行動に不審を感じたアントーニョが制止の声をあげる。が、弐号機は止まらない。
 地面にたたきつけられた衝撃からようやく顔を上げた使徒の口を、がっと押し開く。
『おい!?』
 アントーニョの焦った声に、後退しようとしていた零号機が振り返る。
 アルフレッドは、ぶるぶると顔を振る使徒を力任せに押さえつけ、地面から拾い上げた電柱を縦にして口の中に押し込んだ。
 そして。
 口の端から手を離すと、ハンドガンを構えた。
 口の中に向かって。
「さあ、きついのをお見舞いしてやるんだぞ!」
 そう言った時だった。
『アル!』
 アントーニョの殺気だった声。
 何かを―警告するような。
(え?)
 なんだ、と顔を上げる。
 そして。
 自分の失態に気づく。
 気付かなかった。
 正面に気を取られ過ぎて。
 使徒の身体の後ろ半分。
 それが、エビのようにしなってもちあげられていた。
 そして。
 その尻にくっついていたさそりのようなトゲ。
 それが頭上から、弐号機を狙っていた。
『使徒のトゲ部分から、高エネルギー反応!!』
 トーリスの声が届く。
(見りゃ、わかるけど・・・!)
 アルフレッドは目を見開く。
 頭上に集まっていく熱の塊。
(逃げられない・・・!)
 虹色の光が閃いたその時。
(え・・・?)
 強い力で突き飛ばされた。
 一瞬後に。
 弐号機を焼くはずだったエネルギーの塊は、猛スピードで走りこみ弐号機をすんでのところで突き飛ばした零号機の背中をかすめた。
 光の柱が。
 地面に突き刺さる。
 ドオオン・・・ッ
 地面がえぐれ、クレーターが出現した。
 菊!と、アントーニョの絶叫が聴こえる。
 しかし、菊自身の悲鳴はなく。
 ただ、背中が焼けただれ熱でぶつぶつと泡立つ零号機が、空に向かい咆哮を上げ。
 それから。
 ばったりと倒れた。
「あ・・・き・・・き、く・・・」
 弐号機が思わず這うように零号機に近寄ろうとすると。
 アントーニョの声が、ハンマーのようにアルフレッドの背中を叩いた。
『アホ!目の前見ぃ!』
 はっとして顔を上げると。
 使徒が方向転換し、こちらを向こうとしていた。
 アルフレッドは心臓がぎゅっと縮みあがるのを感じる。
(だ、だめだ、怖がっちゃ・・・おれは、オレは…!)
『アル!ええか!こうなったら、おまえがさっきやろうとしたことをやるしかない!まだあいつの口はあんぐり開いたまんまや!!分析の結果、あいつの核は喉元にあることがわかった!お前の戦術はあながち間違っとらん。バズーカで全体をふっとばすより効率的かもしれん』
 怒気をはらんだアントーニョの声が、アルフレッドの身体を貫いて行く。
 アルフレッドは、倒れた零号機をちらりと見やり、唾を飲み込んだ。
「菊は…」
『菊を助ける為に、はよ倒せゆうとるんや!』
 ビンタを張るような怒声に、弐号機は弾かれたように立ち上がる。使徒は完全にこちらを向いていた。
 口を無理に閉じようとして、電柱がみしっと音を立てる。
 ―長くは持たない。
『アル!あのしっぽの高エネルギーはそう簡単に用意できんはずや。その証拠に尻尾は下ろされとる。連射はできんのや。せやから、おまえは、あいつの動きを止めて口に中に一発撃ち込んでやることだけ考ええ!』
 アルフレッドは、了解、と喉の奥で低く呟くと。
 ハンドガンを一旦腰に戻し、走り出した。
 同時に、使徒も無数の足を動かしながら怒涛の勢いで瓦礫を乗り越えてくる。
『真正面から行く気かよ!?』
 ギルベルトの声。
 しかし、アルフレッドは正面から突っ込む。
 さきほどの手ごたえ。
(止められない力じゃない!)
 キッと使徒を睨みつける。
「行くぞ!」
 そして。
 アルフレッドは、使徒の口からはみ出した二本の牙をぐっと掴んだ。
『アル!』
 使徒の勢いは殺し切れず、瓦礫を生み出しながら弐号機は使徒に押されるように後ろに後退する。
 が、弐号機はけして牙を離さない。
「ぐ・・・っ」
 やがて。
 牙ごと使徒を持ち上げるようにして、使徒の前足の何本かが宙で空回る。
 勢いが止まった。
『すげえ・・・』
 ギルベルトが思わず呟くのが聴こえる。
「当たり前だよ…」
 アルフレッドは、ぐっと腕に力を込める。
 実際に自分の腕を使っているわけではないが、ぎりぎりまで筋肉が張り詰めているのを感じる。
 血管が切れそうだ。
 強い力を、ねじ伏せる。
「オレは…」
 腹に力を込めて。
「ヒーローだからねっ!」
 絶叫するように言いながら、アルフレッドは思いきり腕を上げ、使徒を―ひっくり返した。
 土埃が舞う。
 うげ、と呻いたのは誰だったろう。
 ひっくり返った使徒は腹を天に向け、無数の足をざわざわと狂ったように動かした。
 はあ、と肩で息をついて。
 弐号機は飛び上がる。
 そして。
 くる、と宙で回転すると、片足を突き出した格好で思いきり使徒の腹の上に降り立った。
 使徒の身体が真ん中から半分にぐにゃりと折れ曲がる。
 そして、弐号機は腰からすばやくハンドガンを取り出すと苦しみに口を開いた使徒の口の中にエヴァの手ごと突っ込む。
 アルフレッドは使徒の赤い小さな目を見つめながら、口の端を歪めて見せる。
「ばいばいだ」
 ハンドガンから、光が放たれた。
 喉の奥に突っ込まれたハンドガンから発射された弾丸は、使徒の喉にある核を瞬時に破壊する。
 一瞬。
 びくり、という痙攣が使徒の身体を波打つように走った。
 そうして、その波が足の隅々まで行きわたった後。
 固い原始的な甲殻の継ぎ目という継ぎ目、関節という関節から一斉に赤い液体を噴き出し。
 びくびくと痙攣した後、やがて動かなくなった。
 やった、と声を上げたのはトーリスだったろうか。
 動かなくなった使徒の口から、赤い液体にまみれた腕とハンドガンを取り出す。
 そして。
 アルフレッドは、使徒から離れ、一目散に零号機へと向かう。
 倒れたままの零号機の背中を探り、エントリープラグ強制射出ボタンを探りだす。
 ぶすぶすと焼けただれた背中から煙を上げるエヴァ零号機の肩甲骨の間あたりから白いカプセルが飛び出す。
 アルフレッドは、外に飛び出した。
(菊・・・菊!)
 君は、馬鹿だ。
 白いエントリープラグは、蒸気をあげていた。
 アルフレッドは、ぞっとする。
 この中に―菊がいる。
 アルフレッドはぐっと口を引き結ぶと。
 プラグのハッチに手をかける。
 じゅ、と音がした。
「うわっ」
 思わず一度手を離す。
 手袋が焼き切れていた。
 その下の皮膚も、赤くなっている。
 ―が。
 手を振ると、再び手を伸ばす。
 痛みが手に走るが、歯を食いしばる。
 ぐっとハンドルを回した。
「う・・・ぐ・・・っ」
 熱に焼かれる痛み。
 けれど。
(このくらい―)
 菊。
 なんでオレなんて、かばった。
 アントーニョの言うことを聞かず、君への対抗心だけで勝手な行動をしたオレの自業自得。
 それなのに。
(いくら、アーサーに言われたからって)
 本当に。
 本当に。
「君は…馬鹿だっ!」
 ガコッと音がして。
 熱のこもった空気が、プシューっとカプセルの中から噴き出す。
 それから、温められた赤い液体が。
「菊!」
 アルフレッドが中を覗き込む。   
「菊・・・」
 アルフレッドは息が詰まったように感じた。
 腰のあたりまで赤い液体に浸かって。
 菊が、目を閉じていた。
 ぐったりと。
 エヴァが倒れた時にぶつけたのか、目の上から血が流れている。
「き・・・く・・・」
 心臓を、鷲づかみにされたような気がした。
 どきどきと、鼓動が高鳴っていく。
 まさか。
 まさか―。
 しかし。
 言葉を失いかけたアルフレッドの目の前で、菊がゆっくりと目を開いた。

 真夜中過ぎの電話など、ろくな用件じゃない。
 立ち上がり、緊迫した様子で携帯電話に耳を傾けるアントーニョの横顔を見ながらそう思う。
「―ああ、わかった。菊はもう待機しとるんやな?オレもすぐ向かう。ロマーノは一緒に連れてくわ。うん、ああ、よろしく頼む」
 やがて、アントーニョが電話を切る。
「・・・使徒か」
 そうらしい、と答えて、アントーニョが慌ただしく動き出した。
 アルフレッドは今だ負傷中。
 ロマーノの精神的ダメージも抜けてないだろう。
 しかし、敵はそんな事情を汲んでくれるはずもない。
 アントーニョが床からジャケットを拾い上げて羽織った。
 そのまま、玄関へと向かう。
 フランシスは、アントーニョを追いかけて玄関へと向かった。
 何かを言わなくてはならない。
 そうでなければ、多分ここで開いた扉は―再び閉じてしまうのだろう。
「アン・・・」
 靴に足を突っ込んだアントーニョの背中に話しかけようとすると、遮るようにアントーニョが口を開いた。
「で?」
 え、とフランシスが口をつぐむ。
 壁に手をついて、とんとん、とつま先を打ちつけながら。
「おまえは、なんで戻ってきたん?」
 その言葉に、フランシスは息をのんだ。
 アカデミー在学中。
 ある日突然ネルフのフランス支部へと移った。
 
 男が言った。
 ―真実を知りたいなら、すべてを捨てたまえ。
 もともと何も持ってない。
 そう、答えた。
 捨てて惜しいものなど―ほとんどない、と。
 そう、思ってたんだ。

 馬鹿なオレは。

 フランシスは口を開いた。
「―おまえに、会いに」
 無数に口にしてた口説き文句のくせに。
 少しだけ、語尾が震えた。
 すると。
 一瞬の沈黙の後、アントーニョは。
「へえ、そーなん」
 と、答えた。それは、かつて話を聞いていない時に、よくしていた彼の受け答え。
 フランシスは苦笑した。
 そして、口を開く。
「なあ」
 うん?と振り向かないまま、アントーニョが答える。
「また、来いよ」
 腕を組んで壁にもたれる。
 アントーニョはしばし沈黙すると。
 やがて、ゆっくりと振り返る。
 その顔に浮かぶのは、どこか懐かしい笑みで。
 無言のまま、少し背伸びをして。
 フランシスにキスをした。
 そして。
「ほんじゃ」
 というと、玄関のドアを開け、出て行った。

 残されたフランシスは。
 少しの間、扉を見つめ。
 それから、腕を伸ばして鍵をかける。
 そうして、髪をかきあげ、玄関脇の細長い鏡を見る。
 色男がだいなしだ。
 そう思いながら、リビングへと戻った。
 監査部の彼には、使徒が出たからと本部に集まる必要はない。
 だが、さすがに眠る気にはなれなかった。
 窓辺に座り、外を見下ろすと駐車場から赤いスポーツカーが出ていくところだった。
 スポーツカーを見送り、空へと視線を移す。
 
「でっけえ、月・・・」

 冗談のように。
 フランシスは、月を見上げながら手の甲で唇に触れる。
 アントーニョの笑み。
 ―また、来いよ。
(どっちだよ・・・) 
 それなりの覚悟で言ったんだけど。
 今更、あいつのことで悩むなんてな。
 まるで、初めての恋のように。

 金色の月の光が、窓辺に降り注ぐ。

 ロマーノ、今、家か?
 携帯電話を耳に当てると、アントーニョの声が飛び込んできた。
 その切迫した声音で、何かが起こったのだと分かった。
 たとえば、使徒が現れた、とか。
「ええと・・・家、じゃねえんだ。海岸」
『海岸んっ!?』
 アントーニョがすっとんきょうな声を上げる。
『おまえだけで、こないな夜中にか?危ないやろ』
 いや、と慌てて否定する。
「えっと、なんつーか、その、友達、と一緒だ」
 ちら、と隣を見る。相変わらずフェリシアーノはにこにこしてこちらを見ている。
 アントーニョは、ロマーノの返事に一瞬沈黙する。 
『へえ、友達、な。なら、ええわ。海岸やな。今から迎えに行く』
 そういうと、電話は切れた。
 何のために迎えに行くか、完全に言い忘れている。
 まあ、エヴァパイロットが必要とされる事態など決まっているのだが。
「アントーニョ兄ちゃんが迎えに来るの?」
 ああ、とロマーノは立ち上がり、尻についた砂を払った。
「使徒が出たみてーだ」
 使徒、とフェリシアーノが呟く。
 ロマーノは、フェリシアーノを見下ろした。
「オレ、行かなきゃなんねえけど。・・・おまえ、家は近いのか?なんなら、アントーニョに送って・・・」
「オレなら大丈夫だよ。オレを送ってる暇なんてないでしょ、二人とも」
 それより、とフェリシアーノも立ち上がる。
 同じ背丈。
 本当に驚くほど似た背恰好、容貌。
 まるで、もう一人の自分。
 けれど、自分はこんなに柔らかい雰囲気は出せない。
 ロマーノは思う。
 いつだって怯えた猫のように近づいてくる奴を威嚇して。
 ぬくもりを求めて身を寄せ合えば、互いの針で互いを傷つけるハリネズミのように。
 人も自分も傷つけてしまうオレには。
 フェリシアーノがロマーノの手を掴んだ。
「頑張ってね、兄ちゃん。オレ、応援してるから」
 兄ちゃんて。
「・・・ああ」
 弟なんか、いないって。
 そう思いながらも、ロマーノはうなずいた。

 静かに波打つ海岸に、月の光が散る。

 弐号機を捉えた光。
 考える間もなく、動いていた。
 ―アルフレッドを。
 あの人の声。
 ―守ってくれ。
 貴方が。

(そう、望むなら・・・っ!)

 弐号機を突き飛ばす。
 その瞬間。
 背中に衝撃を受けた。
 熱。
 すべてを焼き尽くす―光。
「ふ、う、ああああ、あ」
 悲鳴が喉の奥で張り付く。
 代りに―エヴァが、啼いた。
 ぐらり、と足もとがふらつく。
 ああ、倒れる、と思ったが。
 それをとどめるようなアクションは起こせなかった。
 ただ、瓦礫の上に落ちていくのを、痛みに悶える自分とは別の自分が冷静に知覚するだけ。

 死ぬんだろうか。

 唐突にそう思った。
 だが―。
(それでも、いい)
 ぽつりと思う。
 私の代わりなど、いくらでもいるのだから。
 アルフレッドさえ、生きていれば。
 あの人は、満足してくれるだろう。
 よくやった、と。
 言ってくれるだろう―。

 私が消えても。

 瓦礫が迫る前に、菊の意識は闇に沈んだ。

 堤防を昇って道路に出る。そして、赤いスポーツカーへと乗り込んだ。
「友達は?」
 運転席のアントーニョが振り返る。
 ロマーノも振り返り、さっきまでフェリシアーノがいた場所を見るが。
 もう、そこによく似た双子のような姿はなかった。
「あれ、さっきまでいたんだけどな・・・」
 アントーニョがロマーノを見る。
「家は近いんか?」
「え、ああ、うん」
(大丈夫っつってたしな・・・)
 ならええけど、とうなずいて、アントーニョはアクセルを踏んだ。
 車が動き出す。
「ロマーノ、落ち着いたな」
 前を向きながら、アントーニョが言った。
 え、とアントーニョの横顔を見る。
「ひどい顔してたんやで。・・・でも、安心したわ、オレ」
 ロマーノは何を言っていいかわからず、ただアントーニョを見つめる。
「こういう時、朝まで一緒にいてれる友達が、ロマーノにもおるんやね」
 アントーニョがロマーノをまっすぐに見る。
 そして、微笑んだ。
「それな、とっても大事なんやで」
 ロマーノはなんだかくすぐったい気持ちになって、腕組みしながらシートに深く沈みこむ。そして、前を向いて言った。
「前見て運転しろよ」
 ふふ、と笑ってアントーニョが前を向き、ほな飛ばすで!とアクセルを踏み込んだ。

 丸い月を背に。
 一人の少年―フェリシアーノが、スポーツカーを見下ろす。
 こともなげに、宙に浮かびながら。
 そして、柔らかい笑みを浮かべると。

「頑張ってね、兄ちゃん」

 と、呟いた。

『もうちょいでアントーニョとロマーノも到着する。とりあえずそれまで時間かせいどいてくれ』
 ギルベルトの声を聞きながら、射出台へと移動していく。
「はい、わかっています。単独で無茶はしません」
 使徒が現れた。
 相手は、6体。
 黒いボディに、白い仮面。ロマーノが初めて戦った第5使徒とやや似た仮面だ。何か関連があるのかもしれない。
 使徒は現在郊外の森の中にいる。
 まもなく、都市へと向かうだろう。
 第3新東京市は迎撃態勢に入ろうとしていた。その為の準備時間を稼がなくてはならない。
 たった一人でも。
『地上に出たら、ヘリで使徒出現場所まで移送する。じゃ、行くぞ』
 ギルベルトの声と共に、身体にGがかかった。
 地上へと飛び出していく。
 がこん、と地上への射出が完了すると。
 目の前に、大きな月が見えた。
 ばらり、とヘリから下ろされた縄梯子を掴む。
 戦場へと、向かう。
 足が地面を離れた。
 ふわりと浮きあがる。
 やがて、暗い森の中に蠢く使徒を見つけた。
『あくまで、時間稼ぎだ。―ま、アルと違っておまえは大丈夫だと思うがな』 
 ええ、と苦笑して。
 それから、行きます、と宣言し、菊は飛び降りた。
 とん、とやや広めの場所に降り立つと。
 ゆらり、と影のように使徒が揺らめいた。
 突然降ってきた異物に、警戒を向ける。
 菊は、持っていたガトリングガンを構えると、おもむろにバババババと回転しながら使徒に無差別に打ち込む。
 すると、使徒は頭と言わず胴体と言わず足と言わず、穴を開け崩れた。
(・・・おや、ずいぶんともろい・・・)
 これは、楽勝だろうか。
 そう思った時だった。
 めこ、と穴がもりあがった。
「!」
 みるみるうちに、穴がふさがり、何事もなかったように起き上がる。
 まるで、ゾンビ。
 いや、ゾンビは身体の自動修復はしない。身体を破壊し尽くせば、その歩みは止まるが。
「これは・・・」
『再生しやがった!』
 ギルベルトの驚きの声。
 ち、とギルベルトが舌打ちする。
『核のある場所の解析を急がせる。街に行かせるわけにはいかねえからな。消耗戦になるが、もちこたえてくれ』
 はい、とうなずいた。
(再生できないほどに―集中砲火を浴びせれば、どうでしょう?)
 菊は、一体に狙いを定め、ガトリングガンを構えた。
 ガガガガガガガッ
 すさまじい数の弾丸が一体に吸い込まれていく。
 煙がおさまると、穴だらけで手足がちぎれかけた使徒がぴくぴくと動いていた。
(これでどうです?)
 菊がじっと見ていると、しかし。
 めこめこっと肉塊のようなものがもりあがり、最後に肉の塊の中から、ぽこん、と綺麗な仮面が顔を出した。
「・・・・っ」
 菊が目を見張る。
 その時。
 うおおおん、という唸りを上げながら、背後から一体が抱きついてきた。
「くっ」
 慌てて引き剥がす。
 すると右手から使徒が手を伸ばす。
(6体はさすがに数が多すぎる…!)
 しかも、倒す手が思いつかない。
(あれほどぼろぼろになっても、瞬時に回復するとは…)
 ―一体、核はどこに?
 攻撃をかわしながら、菊は左右に眼を走らせる。
 昼間の戦闘の疲労が残っている。
 結局アルフレッドが気になって眠れず、睡眠も足りていない。
 あれほどのATフィールドを一時に出したのは初めてだった。
 頭の奥に鈍痛のような鈍い疲れがわだかまってる。
 けれど。
(倒れるわけには・・・いかない)
 エヴァに乗るのに支障は出さない、そうアントーニョに言った。
 彼と・・・ロマーノが来るまで。
 ふと。
 思う。
(私は―)
 一人で戦うものだと、思っていた。
 その為に生まれた。
 孤独な戦いの中に生まれ、死ぬのだと。
 そう思っていた。
 あのときまでは。

 菊!
 自分を呼ぶ声に。
 うっすらと目を開ける。
 ぼんやりとした視界。
 人影。
(アーサーさん・・・?)
 かつての記憶が重なる、が。
「き・・・く・・・」
 怯えた声で名を呼んだその人は。
「アルフレッド・・・さん」
 身体を動かそうとすると、鋭い痛みが走り、思わず呻いた。
 菊!と、アルフレッドが声を上げる。
「う、動いちゃだめだぞ」
 そのとおりらしい。菊は、身体を沈めた。プラグの中は熱がこもっている。
「き、君は、なんで・・・」
 アルフレッドが声を震わす。少し顔を動かして彼を見る。
「なんで、オレなんてかばったんだよ・・・」
 彼は肩を震わせていた。青い瞳が潤む。
 菊は驚いて彼の顔を見つめた。
「いくら、アーサーに言われたからって…死んじゃったかもしれないんだぞ・・・?君は、ほんとに」
 本当に、と繰り返す。
「ホントに、馬鹿だ…!」
 そう言って、彼はこらえきれなくなったように顔を伏せた。
 その時。
 彼がプラグのハッチにかけた手に気づく。
 特殊な強化繊維で作られたプラグスーツ用手袋が無残に焼け、その中の手のひらが赤くやけどを負っているのが見えた。
「アルフレッドさん・・・貴方、手が」
「こんなの、何でもない!」
 顔を上げたアルフレッドを見て、菊は目を見張る。
 彼の目から、涙が流れていた。
「なんで・・・泣いてる、んです?」
「なんで?なんでじゃないよ」
 ぐしぐしと涙を乱暴にぬぐった。
「これは、嬉し泣きじゃないか」
 菊は、あっけにとられた。
「嬉し…泣き?何が嬉しい・・・んです?」
 心底不思議そうに言った菊を、アルフレッドは呆れた顔で見下ろす。涙は止まらない。
「君が、生きてたからだろ。生きててくれたからだろ」
 それが嬉しいんだよ、と。
 菊は、身体のどこか、奥深くがゆらぐのを感じた。
「私が生きてると…嬉しいんですか」
 貴方は、私が嫌いなのではなかったのか。
 そりゃそうだよ、とアルフレッドは菊を見つめる。
「だって、オレ達は仲間だろ。君は、世界でたった一人しかいないオレの仲間じゃないか」
 仲間。
 揺らぎ始めた身体の芯に、蝋燭に火をともすように暖かい光がともる。
 菊は落ち着かない様子で目を左右に泳がせた。
「どう・・・しましょう」
 え?とアルフレッドが目をしばたく。
 菊は右手を持ち上げると顔を半分覆った。
「こんな時・・・どういう顔をしていいのか、わからないんですよ」
 その言葉に。
 ぽかんとしたアルフレッドが、やがてゆっくりと笑みを浮かべた。
 涙の一滴が、頬を伝い落ちる。
「笑えば、いいと思うぞ」
 その言葉を聞きながら。
 菊は。
 強張った頬をほぐすように、ゆっくりと。
 笑みを浮かべた。

                

 カラカラカラ・・・
 弾がなくなったガトリングガンを投げ捨てる。
 そして、ナイフを引き抜いた。

 ―アルフレッドさん。
 貴方は本気で。
 本気で、私の生を喜び。
 そして、涙を流した
 仲間だと、言ってくれた。
 たった一人の仲間だと。
 あの時から。
 守らねばならないもの、から。
 守りたいもの、に。
 変わったんです。

 二体同時の攻撃をかわす。そして、ふと横にもう一体が迫っていることに気づいた。
(しまっ・・・)
 菊が目を見開いた時。
 その使徒の頭から一筋の閃光が貫き。
 使徒はばったりと倒れた。
 はっとして菊が空を見上げると。
 初号機がヘリから飛び降りるところだった。
『わりぃ、遅れた!』
 初号機が、零号機に背中合わせに立つ。
 ロマーノの声に、不安定さはなかった。
 そのことに、自分でも驚くほど安堵を感じる。
(私は―いつの間にか、こんなに)
 ―世界でたった一人しかいないオレの仲間じゃないか。
 アルフレッドさん。
 そうでした。
 私たちには、もう一人。
 大切な仲間が―いるんです。
「お待ちしていました、ロマーノさん」
 もう、お互いだけじゃない。
 ナイフを構え直す。
 おう、とロマーノが背中で答えた。

「アントーニョ」
 ギルベルトが振り向く。
 彼に並ぶと、早口に話しかける。
「状況は無線で説明した通りだ。あいつら、核が見つからない。しかも、恐ろしい再生能力だ。身体の強度は脆いが、これじゃこっちが先にまいっちまうぞ」
 ギルベルトの声にさすがに焦りを聞きとりながら、アントーニョはスクリーンを黙って見つめる。
 スクリーンの中では、菊とロマーノが戦っている。連携はとれているが、確かに倒す端から使徒が復活していく。
「使徒の体の分析結果を映します」
 トーリスの声と共に、画面の右はじに使徒のシルエットと分析の文字が並ぶ。核があればエネルギー反応が出る。しかし、この使徒たちのどこにも、核の反応はなかった。
「すべての使徒で同じなんやろうな」
 アントーニョの言葉に、トーリスが答える。
「はい、組成はすべて同じです。すべての使徒に核は存在しません」
 トーリスの言葉にエドが付け加える。
「ただ、彼らは固まっていなくてはならないように見えます。一体だけ離れて街に向かう、というようなことも可能だとは思いますが、それをしようとしません。使徒の知能レベルがどの程度かわかりませんが、なんらかの制約がある可能性があります」
 アントーニョは腕を組み、右手の親指の爪を噛む。
 核のない使徒たち。
 活動範囲の限定。
 そして―。
 アントーニョは、目を閉じる。
(この違和感や)
 ざわざわする意識の奥を探る。
 フランシスの家を出てから、ずっと。
 奇妙な違和感がつきまとってる。
(これは、なんや)
 自分の直感は信じていた。
 これが、何度も自分を救ってきた。
 自分に司令官の素養があるとすれば、知識や判断力ではなくむしろこの土壇場の勘なのではないかと思うほど。
(考えろ)
 考えろ。
 深く。
 自分の意識の奥へ。
 そして。
 アントーニョは、はっとして目を開ける。
 腕を解くと、スクリーンに向かって身を乗り出した。
「アントーニョ?」
 ギルベルトが怪訝な顔をする。
「月・・・や」
「は?」
 ギルベルトが眉をしかめる。
「今、何日や!?」
「何日って・・・あ」
 ギルベルトは口をあんぐり開ける。ぴ、と彼の頭の上で小鳥がないた。
「今夜は…」
「そう、新月や」
 アントーニョが、にやりと笑ってギルベルトの前で人差し指を立ててみせる。
「なんか、おかしいとおもっとった。あないにでかいまんまるい月が出とるはずないんや。ちゅうことは、や」
「あれが使徒の本体・・・って、ことですか」
 感心したようにエドが顎をさする。さすがですね、とライヴィスが歓声をあげた。
「トーリス!あいつが浮かんでる高度は!?」
 トーリスの指が踊る。そして、数字を叩き出した。
「高度1500メートル!」
「ジェット旅客機が飛ぶ高度より低いな。衛星からの映像、飛ばせるか」
「今、やってます」
 カタカタ、とエドが指を走らせる。ぱっと一つの映像がスクリーンに重なる。
 上から見るとよくわかった。
 丸い円盤が日本の上空に浮かんでいるのだ。
「核反応・・・検知!!」
 トーリスの言葉に、おし、とギルベルトが右手の拳を左の掌に打ち付ける。
「ギル」
「わかってる。長距離用ライフルを、そうだな、455地点に15分で準備する。・・・ロマーノがいいだろうな、あいつは射撃の腕はいい」
 アントーニョとギルベルトは、お互い視線を合わせる。それから、二人は同時に笑みを浮かべて、ぱん、と手を打ち鳴らした。
 そのまま、アントーニョとすれ違いながら、ギルベルトが走り出す。
 アントーニョは友人が走っていくのを背中に感じながら、ロマーノ達へと語りかけた。
「菊、ロマーノ。よう聞けや。核の在り処がわかった。お前の上にある月や。今夜は新月で、月は出とらんからな。それはにせもんのお月さんなんや。せやから、遠慮のう吹っ飛ばしてええ」
 はあ?とロマーノのすっとんきょうな声が聴こえてくる。それから、まさか・・・という菊の声。
「今ギルがそこから東に200メートルほど行った455地点に長距離用ライフルを用意しとる。15分で準備は完了するから、ロマーノはそこへ行ってお月さん、撃ち落としたれや」
 撃ち落としたれって…とロマーノが苦笑する。
『では、私はこいつらの足止めですね』 
 菊の声にうなずく。
「すまんけど、そういうことになるわ。疲れてると思うけど、あと少し頼む」
『ご心配なく』
 菊がさらりと答えた。
 アントーニョは笑みを浮かべ、それから再び腕を組んでスクリーンを見つめる。
「さあ、じゃあ、反撃開始といこうやないか。お月さん狩りの時間やで」
 彼の視線の先には、巨大な月が地上に光を投げかけていた。

『では、ロマーノさん。私が東の方面に突破口を作ります。そこから猛ダッシュでライフルのある地点まで向かってください』
 ロマーノは菊の声にうなずく。
「わかった。…悪ぃな」
 ふ、と菊が笑う。
『そう思うなら、早く片付けてくださいね。お月さま狩り』
「・・・あいつ、ほんっと、センスねえよな」
 菊が動き出す。恐ろしい早業で一体の使徒の腕を切り捨て、さらにもう一体を蹴り飛ばした。
『今です!』
 おう、と答えてロマーノは走り出した。暗い森の中を。

 走り出した初号機を、ざわっと使徒たちが振り返る。
 しかし、その視線の先に零号機が立ちはだかる。
「さて、行かせませんよ」
 零号機はナイフを構える。ナイフの使い方には、菊が一番長けていた。
「貴方達人形の相手は、私がいたします」
 ロマーノは、わき目もふらずに走り続ける。

 上空。
 冷たい風の吹く夜の空で。
 一人の少年が、地上を見下ろしている。
 もうすぐ、準備が整う。
 ロマーノの弾丸が―月を穿つ。
 フェリシアーノは、笑みを浮かべた。

 水を飲もう、と立ち上がったフランシスは、しかしストロボのごとき白い強烈な光に振り返る。
 光の柱が。
 空へ立ち昇っていた。
 それは、まっすぐ。

 月へ。

「え・・・?」

 そんな、アホな。

 フランシスは、思わず目を見張った。

「お腹空いたよ、アーサー」
 つないだ手を揺らして、そう訴えると。
 アーサーが苦笑してアルフレッドを見下ろす。
「もうちょっとでうちだよ。もう少し我慢しろ」
 ぶう、と口をとがらせて空を見ると、ぽっかりと丸い月が浮かんできた。
「ねえ、アーサー。お月さまって、美味しそうだよね。なんか、パンケーキみたいなんだぞ」
 そういうと、はは、とアーサーが笑った。
「食われたら困るだろうな。夜がもっと暗くなる」
「パンケーキなら、帰ったら作ってあげるよ。メイプルシロップ買ってきたしね」
 後ろからマシューが言う。
「ほら、もう家だ」
 アーサーがつないだ手を引っ張る。
 アルフレッドが顔を向けると、見慣れたマンションの明かり。
「じゃあ、お月さまは食べないようにするよ」
 そういうと。
 アーサーとマシューが笑った。

 アルフレッドは、うっすらを目を開ける。
 窓の外に、大きな黄色い月。
 あ、パンケーキ。
 そう思った時だった。
 白い閃光が、月を貫いた。
 一呼吸置いて。
 ぱりん、と月が砕け散った。
 きらきらと。
 光る破片を地上に振りまきながら。
「あれ・・・」
 ぼやけた頭でアルフレッドは空を見上げる。
「お月さま、壊れちゃったんだぞ」
 呟いたアルフレッドの視線の先で、月の真中から姿を見せた赤い何かが煌めき、それから、それも、ぱりん、と割れた。

 ばたばたと、普段の菊にはありえないような騒々しさで病室へと走る。
「き、菊」
 待てよ、とロマーノが追いかける。
(シャツのボタン・・・)
 ばん、と菊が扉を開ける。
 ぜい、とロマーノが後ろで壁に手をついて息を整える。
「アルフレッドさん!」
(・・・ずれてんだって)
 あ、とアントーニョとギルベルト、そしてオペレーター三人に囲まれたベッドの上で、アルフレッドが手を上げた。
「やあ、菊。ロマーノも」
 アルフレッドは下ろしかけた手を、そのまま止める。
 入口に立ったまま。
 菊は、ぼろぼろと泣きだしたのだ。
 ロマーノも驚いて立ち止まる。
(本田が・・・)
 こんな風に泣くなんて。
 アルフレッドは目を瞬き、それからベッドから降りてスリッパに足を通す。
「おい」
「大丈夫だって」
 アントーニョの手をやんわりとどけて、アルフレッドは立ち上がる。
 立ちつくしたまま、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし続ける菊の前まで行くと、アルフレッドは菊の顔を覗き込んだ。
「オレはこの通り大丈夫だって」
 ええ、とかすれた声で菊は何度もうなずく。
 ふう、と息をついてアルフレッドは菊の手を掴んだ。
 菊が驚いてアルフレッドを見つめる。
「なあ、菊。教えてあげただろ。こういう時はさ」
 アルフレッドの言葉に、菊は一瞬意表を突かれた顔をして。
 それから、ゆっくりと笑みを浮かべて見せた。
「ええ、わかってます。・・・笑うんですよね」
 その言葉に、正解、とアルフレッドも微笑んだ。
 アルフレッドと菊が示し合わせたように、ロマーノの方を見る。ロマーノは少し戸惑って、それから、ぼそっと言った。
「・・・本田、シャツのボタンずれてんぞ」
「え」
 菊は、慌てて自分の服を見下ろす。
「な、なんてことでしょう、私としたことが・・・」
 あわあわとシャツのボタンをはめ直し始める菊を見て、アルフレッドがあははと笑った。その顔を見ながら、ロマーノも頬を緩める。
 三人の様子を見ながら、ネルフメンバーも笑みを浮かべた。

 扉の脇で。
 マシューがアーサーに話しかける。
「入らないんですか」
「いや・・・オレは、いい」
 病室の中を見ていたアーサーがきびすを返す。
 きびすを返したアーサーは、下を向き、わずかに微笑んだ。
 マシューはその背中をしばし見送っていたが、やがて廊下の窓から空を見上げる。
 夜は終わりかけていた。
 薄明の空。
 まもなく、太陽が昇ってくる。
 月のない空に。

 夜明けの明るい光が、廊下に差し込もうとしていた。


 

 次号へ続く

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